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第一章 三話
「お、お待ちください!!」
焦ったような声が、静寂を切り裂いた。
声を上げたのは、レグニスの傍らに控えていた男――ジルフェール・エルネストだった。
ジルフェールは、己の主を長く見てきた。
レグニス・フォン・オルセンブルグ。
オルセンブルグ王国において大公位を賜る男であり、若くして一軍を預かる才覚を持つ者。
冷静沈着。
寡黙。
判断が早く、迷いが少ない。
少なくとも、ジルフェールの知る主はそういう男だった。
魔の森の中で、見知らぬ少女に片膝をつき、求婚じみた言葉を口にするような男ではない。
――閣下が、どうかなされた。
ジルフェールは心の中で、そう結論づけた。
まずい。
非常にまずい。
目の前では、少女がレグニスへ歩み寄ろうとしている。
その足取りは静かだった。
殺気はない。
だが、殺気がないことが、かえって恐ろしい。
つい先ほどまで、数え切れないほどの魔物を斬り伏せていた少女である。
血の匂いをまとったまま、剣を携え、主君へ近づいている。
止めない理由がなかった。
「お待ちください、ミラ殿」
ジルフェールは、できる限り穏やかな声を意識した。
穏やかに。
冷静に。
決して、取り乱しているように見せてはならない。
もっとも、最初の一声が盛大に裏返っていた時点で、その努力は半分ほど失敗していた。
少女――ミラは、ぴたりと足を止めた。
そして、不思議そうに首を傾げる。
「なに?」
その声には、敵意も警戒もなかった。
ただ、本当に分からないという響きだけがある。
ジルフェールは一瞬、言葉に詰まった。
何と言えばいい。
主君から離れてください、では角が立つ。
剣を収めてください、では警戒していると悟られる。
そもそも、こちらからすれば警戒しない理由がないのだが、それを正直に伝えるほどジルフェールは愚かではなかった。
「……失礼。まずは、名乗らせていただきます」
ジルフェールは胸に手を当て、深く一礼した。
「私はジルフェール・エルネスト。こちらは、レグニス・フォン・オルセンブルグ閣下。オルセンブルグ王国において大公位を賜る御方です」
ミラは、数秒ほど黙っていた。
そして、レグニスを見た。
次に、ジルフェールを見る。
最後にもう一度、レグニスを見た。
「……やっぱり偉い人?」
「はい。非常に」
「膝、大丈夫?」
「そこから離れていただけますか」
思わず本音が出た。
ジルフェールはすぐに咳払いをし、表情を整える。
ミラはそれでも、よく分かっていない様子だった。
「でも、辛そう」
「それは……」
ジルフェールはちらりと主君を見る。
レグニスは、額に手を当てたまま沈黙していた。
まるで、自分の行動を今になってようやく理解したかのように。
「閣下」
ジルフェールは小さく声を掛ける。
「一体、どうなされたのですか」
問いかけに、レグニスはすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと息を吐く。
「……分からん」
その声には、明らかな動揺が滲んでいた。
ジルフェールは目を見開く。
分からない。
レグニスが、そう言った。
あのレグニス・フォン・オルセンブルグが。
戦場であろうと、会議の席であろうと、暗殺者に刃を向けられようと、判断を誤らぬ男が。
今、自分自身の行動を分からないと言った。
「閣下……?」
「いや」
レグニスは額から手を離し、静かに立ち上がった。
その動きは普段通りだった。
少なくとも、表面上は。
「取り乱した。忘れろ」
「……承知いたしました」
ジルフェールは頭を下げた。
だが、忘れられるはずがなかった。
主君が見知らぬ少女に片膝をついたことも。
その少女の一言で、我に返ったことも。
そして何より、レグニスの瞳に浮かんだ、あの揺らぎを。
ミラはというと、そんな二人の様子を見比べていた。
やがて、小さく頷く。
「膝、治った?」
「治ったわけではない」
レグニスが低く答える。
「だが、問題ない」
「よかった」
ミラは納得したようだった。
納得する場所が違う。
ジルフェールはそう思ったが、口には出さなかった。
今は余計な言葉を挟むべきではない。
主君の尊厳は、すでにかなり危うい場所に立っている。
これ以上、削らせるわけにはいかなかった。
レグニスは改めてミラへ向き直る。
「先ほどは助けられた。礼を言う」
「助けたつもりはないけど」
「それでも、結果として俺たちは救われた」
「そう」
ミラは少しだけ視線を逸らした。
「なら、よかった」
短い返事だった。
だが、その言葉に嘘はないように思えた。
ジルフェールは、わずかに眉を動かす。
この少女は妙だった。
魔物を斬り伏せる力を持ちながら、それを誇る様子がない。
大公を前にしても、怯える様子も媚びる様子もない。
身分を知らされても、出てきた言葉は「やっぱり偉い人?」である。
常識がないのか。
それとも、常識に価値を置いていないのか。
判断がつかなかった。
レグニスは静かに続ける。
「ミラ。ひとつ頼みがある」
「なに」
「護衛を頼みたい」
ジルフェールは思わず主君を見た。
今、この少女を近くに置くと?
正気ですか、と言いかけて、寸前で飲み込む。
だが、考えれば考えるほど、否定しきれない自分もいた。
正体の分からない強者をこのまま野に放つより、目の届く場所に置いた方がいい。
少なくとも、同行していれば観察できる。
危険かどうかも、見極められる。
そう考えている自分に気づき、ジルフェールは軽く頭痛を覚えた。
ミラは、特に驚いた様子もなく首を傾げる。
「護衛?」
「ああ。俺たちはこれからウルグブルク公爵家へ向かう。この森を抜けるまでで構わない。道中、同行してもらいたい」
ミラはすぐには答えなかった。
視線を少しだけ逸らし、倒れ伏した魔物たちを見る。
ほんのわずかに、気まずそうに。
「……まあ」
風が吹いた。
血の匂いが、薄く流れていく。
「少し、私にも原因があるし」
ジルフェールの表情が、わずかに変わる。
「原因、ですか」
「そう」
ミラは短く頷く。
「それは、この魔物たちが我々を襲ったことに関係が?」
「たぶん」
即答だった。
ジルフェールは、笑顔のまま一拍置く。
「……たぶん?」
「たぶん」
ミラは、なぜ聞き返されたのか分からないという顔で言い直した。
ジルフェールは笑顔を保った。
保っただけだった。
「そのあたりを、できれば詳しくお聞かせ願いたいのですが」
「長くなる」
「では、道中で」
ミラは沈黙した。
それから、ぽつりと言う。
「逃げ道がない」
「逃げるおつもりだったのですか」
ミラは答えなかった。
ジルフェールの胃が、また少し痛んだ。
レグニスはそんな二人のやり取りを見て、わずかに口元を緩める。
その表情は、普段の彼からは考えにくいほど穏やかだった。
「決まりだな」
「いいよ」
ミラはあっさり頷いた。
こうして、ミラは一団に同行することになった。
ただし、馬車には乗らなかった。
当然といえば当然である。
つい先ほどまで数十体の魔物を斬り伏せていた正体不明の少女を、いきなり主君と同じ馬車に乗せるほど、ジルフェールは大胆ではない。
ミラもそれに不満を示すことはなかった。
むしろ、馬車の横を歩く方が自然だと言わんばかりに、剣を携えたまま淡々と進んでいく。
一団の歩みは遅かった。
ここは、魔の森の下層に位置する。
端とはいえ、魔物が跋扈する領域だ。
本来、人が立ち入ることもない。
冒険者や開拓者が切り拓いた道はあっても、一団ほどの大所帯が満足に進める道は限られる。
この道もある程度広く作られているが、大雑把で舗装されておらず、地面には木の根が張り、ところどころにぬかるみもある。
馬車の車輪は小さく軋み、騎士たちも周囲を警戒しながら歩を進めていた。
急ぎたい事情はある。
だが、この状況で速度を上げれば、馬車も人も無事では済まない。
だから一団は、歩くほどの速度で森を進んだ。
それでも問題はなかった。
この道を選んだ時点で、正規の道を行くより二、三日は早く着ける計算だったからだ。
やがて、木々の隙間から白い石壁が見えた。
高い鉄柵。
整えられた庭園。
その奥に、重厚な屋敷があった。
ミラは足を止め、少し先を指差した。
「あれが、ウルスブルク家の屋敷」
ジルフェールはその先を見る。
確かに、ウルスブルク公爵家の紋章が掲げられていた。
「ここからは、もう大丈夫」
「大丈夫、とは?」
「魔物除けの結界が張ってあるから。たぶん、魔物は入ってこない」
「……たぶん?」
「たぶん」
ジルフェールは、深く追及することを諦めた。
「これで依頼は完了」
ミラはそう言って、森の方へ向き直った。
「お待ちください」
ジルフェールは慌てて声を掛けた。
「報酬の話がまだです」
「いらない」
即答だった。
ジルフェールは目を細める。
「しかし、我々はあなたに護衛を依頼しました。正式な依頼である以上、相応の報酬はお支払いします」
「いらない」
ミラはもう一度、同じように答えた。
そして少しだけ視線を逸らす。
「そこまで、落ちぶれてない」
その言葉の意味を、ジルフェールはすぐには測りかねた。
誇りか。
遠慮か。
あるいは、罪悪感か。
倒れ伏した魔物を見た時の、あのわずかな気まずさが頭をよぎる。
「ミラ殿」
「用事を思い出した」
唐突にそう言って、ミラは森の方へ足を向けた。
「用事、ですか」
「うん。急ぎ」
「せめて、どちらへ向かわれるのかだけでも」
「森」
「それは見れば分かります」
ミラは少しだけ首を傾げた。
そして、何も答えずに歩き出す。
その足取りは静かだった。
数歩進んだかと思うと、木々の影に溶けるように、その姿は見えなくなった。
ジルフェールはしばらく、その消えた先を見つめていた。
「……何者なのですか、あの少女は」
答える者はいなかった。
ただ、レグニスだけが、静かに森の奥を見ていた。
コメント
1件
読ませていただきました。ジルフェールの視点がとても新鮮でした。「笑顔を保った。保っただけだった」という一文に、内心の動揺とプロとしての立ち振る舞いの葛藤が凝縮されていて好きです。レグニスの動揺や、ミラの「たぶん」という絶妙に曖昧な返事も気になる——この距離感の積み重ね、続きが気になりますね🤍