「あぁ、楓くんの店に通い始めてから花のこととか興味持つようなってさ」
「じゃあ、その時に…?」
「そう、本当に似合わない趣味だけどな」
そんな自虐的な言葉を放ちながらも仁さんはとても穏やかで優しい表情をしていた。
「全然いいと思います!…ていうか、なんか嬉しいです」
「嬉しい?」
仁さんは、不思議そうに俺に顔を向ける。
俺は、仁さんを見つめながら言った。
「だって、俺の好きなものが仁さんの好きなことに繋がるって…なんか、すごい嬉しくないですか?」
「…だな」
そう言って、仁さんは穏やかに微笑む。
「……楓くんは花以外でなんかあるの?趣味」
「俺ですか?えっと…漫画とかは中学の頃からよく読んでますけど」
「漫画か…どういうやつ読んでんの?」
「えーっと……王道で言うとドラゴンボールとかONEPIECEも見ますけど、ライアーゲーム、ウシジマくん、極主夫道とかも読んだことあります」
「……へえ、懐いな。でも、その極主夫道ってのは初めて聞いた、どんなやつ?」
「簡単に言うと元伝説の極道が専業主夫として生活する日常を描いたコメディ漫画で!ドラマ化もしたんですけど、ほんと面白くて!」
俺はワクワクした気持ちで話す。
「…俺、実は最近ヤクザ系の漫画ハマってて」
「楓くんヤクザ苦手って……漫画ではヤクザ系見ん
だ?」
「は、はい。2次元のヤクザものって、リアルの暴力団組織と違って結構美化されてるんですよ」
「あぁ、それはよく聞くな」
「義理堅かったり、人情深くて…規格外の強さで…!とにかくかっこよくて、もはや漢として惚れてしまうっていうか……!」
「しかも想像以上に重い過去があって…本当にもうお前それ以上背負わなくていいよ!って言いたくなるぐらい、つい支えたくなるぐらい…感情移入余裕で出来ちゃうんですよ……」
そう語ってから、興奮しすぎたと口を手で防ぐ。
「くくっ……そんなに好きなんだ」
「す、すみません、つい興奮して…」
「いや、いい。俺もそっち系の漫画読んでみたくなった」
「ほんとですか!よかったら今度貸しましょう
か?」
「頼むわ」
そう言ってまた笑ってくれて、安堵する。
すると、仁さんが思い出したように言った。
「……あ、もしかして、楓くんが俺の刺青見ても怖がらなかったのってそれが理由だったりすんの?」
「あ、はい!背割り?とか、龍のタトゥーをよく漫画で見てたので、現実で見たのは初めてで、つい感動して…」
その言葉に仁さんは目を丸くさせる。
それからゆっくりと表情を崩して口を開いた。
「……そっか」
でも、そんなとき
不意に、大浴場で将暉さんの言っていた
『楓ちゃんにそんな反応されたなら、あいつもホッとしたろうね』
という言葉を思い出す。
「あの…仁さん?」
「ん?」
「その…今更なんですけど、俺に勝手に背中見られて嫌な気持ちなりませんでした…?」
おずおずと尋ねる。
「…なったな」
「..!…..す、すみません!やっぱりそうですよね…
俺、仁さんのこと何も考えずに…っ」
慌てて謝ると仁さんはクスクスと笑い出して
「冗談だって、はははっ…」
と肩を震わせた。
「…なっ、か、からかわないでくださいよ…!」
そう言って胸を撫で下ろすと
「…それより楓くんの反応見て、安心した」
と笑顔を見せて、続けた。
「楓くんにだけは、怖がられたくなかったからな」
仁さんは、遠くを見つめながら淡々と答えた。
その言葉に、なんだか胸が締め付けられる。
「俺、仁さんといるときが1番安心するんです、だから、怖いなんて思わないですよ」
「ふっ……そうか」
◆◇◆◇
お互いに言葉が途切れる。
沈黙が続いていると、いつの間にかアパートの前に着いていた。
「じゃあ……また」
「あの、仁さん!明日は、花屋来てくれますか?」
「……あぁ、行こうかな」
その返事に喜びつつ
「……じゃあ、また明日」と別れを告げる。
「あぁ、また明日」
そう言い残してお互い部屋に入る。
俺は部屋の鍵を開け
玄関に上がったところで、気分が高揚しているのを感じた。
“楓くんにだけは怖がられたくなかったからな”
さきほどの言葉が脳裏で反する。
その瞬間、胸がドキリと音を立てた。
仁さんは俺をどう思っているんだろう、と考えたことは何度かあったが
俺は仁さんのことをどう思っているのかが、ふと頭に浮かんできた。
答えを探そうとするも、それは霧のようにぼやけて掴めない。
ただ一つ確かなことは、仁さんとの心地良い時間がずっと続けばいいのにと思うということだけだ。
仁さんが店に来るペースが減っただけで寂しいと感じたり
番でもなんでもないただの男友達なのに服を貸してくれたり
そんな仁さんに甘えてしまう自分がいるのも事実で、仁さんの匂いに反応してしまったり
仁さんのことを思うと胸が熱くなって
考えてみると最近、仁さんのことを考えてばっかな気すらする。
(…この気持ちって、一体、なんなんだろ……?)
───────────
───────…
それから数日後の、いつもの金曜日。
仁さんと向かい合って座る俺の目の前には
琥珀色の液体が満たされたグラスが静かに置かれていた。
隣では将暉さんと瑞稀くんが楽しそうな笑い声を響かせながらそれぞれのグラスを傾けている。
場所はいつもの「Amber Lounge」
その落ち着いた照明は、彼らのグラスに反射してきらめき
店内を満たす芳醇なウイスキーの香りと微かに漂うシガーの煙が大人な夜を艶やかに演出していた。
耳に心地いいジャズの調べが都会の喧騒を遠くへ押しやり、この空間だけが切り取られたかのように穏やかな時間が流れていた。
仁さんが、いつの間にか空になっていた俺のグラスに、ゆっくりとカクテルを注いでくれる。
氷がカラン、と涼やかな音を立て
その一つ一つの優しい仕草が、日中の張り詰めた神経をゆっくりと解き放っていくようだった。
「楓くんさ、あれから番は見つかった?」
仁さんの低く、しかし温かい声が、俺の心にじんわりと染み渡る。
その問いに、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「いやもう全然ですよ……!マチアプは危険って聞くし」
仁さんは俺の言葉に、小さく頷きながら
「ま、焦らなくてもゆっくりでいいんじゃない」
と続けた。
「それもそうです、ね」
俺はグラスを傾けながら、その言葉に心からの安堵を覚えた。
隣では将暉が肘で稀を小突き、軽口を叩き合っている。
四人での他愛ない会話が、心地よいリズムで続いていた。
仕事の話、最近あった面白い出来事、将来のこと
語り合う言葉は尽きることなくこんな穏やかで
大切で、温かい時間が永遠に続けばいいのにと俺は心からそう願った。
その時だった
カラン、と入り口のドアが開く
いつもと同じ、何気ない音。
何気なくそちらに目を向けた
その瞬間
俺の全身の血の気が、一瞬にして足元から吸い取られていくような強烈な感覚に襲われた。
視界の端が、一瞬にして暗転する。
そこに立っていたのは
俺が何年も会っておらず、この世で最も顔も見たくないと願っていた存在
母親だった。
あの嫌悪感を催す
見慣れた、だが心底忌まわしい顔が何の躊躇いもなく、まっすぐに俺たちのテーブルに向かってくる。
背筋に氷を流し込まれたような冷たいものが走り
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
俺は堪らず席を立ち、震えながら声を上げた。
「な、なんで…あなたが、ここに…………っ」
「…楓、やっぱりここに居たのね」
母親は俺の顔など見向きもせず、仁さんや瑞稀くんを順に眺め
その向かいに座る将暉に目を向けたところでようやくその視線を止めた。
そして何を思ったか
片手で俺の顎を持ち上げ、熟れた林檎のように赤く染まった顔を近づけてくる。
その息遣いまでが、俺には酷く嫌悪感を催させた。
「ふふっ……随分と怖い顔をするのね?実の母親相手に」
その声と表情に、身の毛がよだつ。
俺は堪えきれず、母親の手を強く振り払った。
「あらやだ、野蛮な子」
「……話があるなら、外にしてください」
言い淀む俺の言葉に、母親は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「…あらそう?じゃあ先に出てるわね」
そう言って踵を返した母親の背中に一瞬の安堵がよぎる。
俺はすぐに仁さんたちの方に振り返った。
「すみません…何も聞かずに待っててくれますか?
少し、外で話してくるので」
仁さんたちは呆気に取られた顔で俺を見て
ただ曖昧に頷いた。
仁さんが何かを言いかけたけれど、俺は「すぐ戻ります」とだけ呟いて母親のあとを追って店の外に出た。
◆◇◆◇
バーの外は、肌寒い夜風が頬を撫でる。
母親は、慣れた手つきでライターの火でタバコに火をつけ、最初の一服を長く吸い込んだ。
紫煙が夜空にゆっくりと溶けていく。
「元気だったじゃない、楓。ずいぶん“普通”に生きてるみたいね」
その言葉に、胸の奥がざわめいた。
まるで毒のように、過去の嫌な記憶が滲み出すようだった。
「……こんなとこまで来て、何の用ですか」
「なによもう、そんな他人行儀に」
「いいから、質問に答えてください」
「可愛い息子の成長を見に来たらだめなのかし
ら?」
俺は母親を睨み返し、そのふてぶてしい顔を強く脳裏に刻み込む。
だが母親は俺の反応にさらに気を良くしたように、鼻で笑った。
「14年前のこと、まだ引きずってるつもり?」
その言葉には、俺への軽蔑と、理解しがたい行動への苛立ちがにじみ出ていた。
「勝手に家を出て、かと思えばあんな連中と呑み食いして?どうせちゃんとした職にも就いてないんでしょうねえ……」
母親が一気にまくしたてた言葉はまるで
俺の行動すべてがおかしく、常識から逸脱しているとでも言いたげだった。
「番も居ないって傑ちゃんから聞いたし」
それは正しく、俺の兄のことだった。
「に、兄さんと会ったの…?!」
俺の心は激しく揺さぶられた。
「ふっ、会ったもなにもあの子とはよく会ってるわよ。あなたと会うのは止められていたけどね」
母親の言葉に、脳裏に兄の顔が浮かぶ。
「にしても、あなたもバカな子よね~」
「……愚痴言いたいだけならもう戻るから」
そう言って母親に背を向けると
彼女は不意に、しかし確に満ちた声で言った。
「それはそうとあなた、傑に何も知らされてないみたいね…?」
俺は振り返り、その言葉の意図を探る。
「何のこと」
「ふふっ、まぁいいわ。また会いに来るわね」
母親はそれだけ言うと、あっという間に闇に溶ける様に立ち去ってしまった。
俺は怒りと不信感、そして深い嫌悪に打ち震えたが、早く仁さんたちのところに戻ろうとバーの扉を開けた。
「あっ、楓ちゃん戻ってきた」
俺の姿を認めると、将暉が嬉しそうに手を上げた。
それに無理にでも笑い返して、俺も席に着く。
「すみません、変なとこ見せちゃいましたよね」
「楓ちゃん…今のは」
将暉さんが何か言いかけたが仁さんがそれを察したかのように、静かに遮った。
「さっきの女の人って楓くんの母親?」
一瞬、答えに詰まる。
胸の奥で、まだ母親の存在がざわついていた。
だがすぐに俺は無理やり笑顔を作った。
「そんなとこです、ははっ…」
すると、何かを察したかのように将暉さんが明るい声で言った。
「じゃ、楓ちゃんもう一杯呑も!」
「…は、はい!」
仁さんに促されるまま、俺はグラスに残っていたカクテルを一気に干した。
それからもしばらく四人で談笑し
時間が迫って解散する頃には、俺の中のわだかまりはだいぶ薄くなっていた。
仁さんたちの温かい言葉と、心地よい空間に包まれ、再び穏やかな夜が戻ってきたようだった。
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