テラーノベル
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思わずイロハは、その幻想を見て口元を抑えた。
どんな展開か予想はついていたのに、いざ直視するとなると、あまりにも残酷な光景すぎる。
「あぁ……」
声とは言えぬ、掠れた音が口から流れる。レンはそれを見た瞬間、ついに頬に熱いものが流れ始めてしまった。
目の前の幻覚では、幼いレンが歩道で固まっていた。 地面に手をつき、手のひらは擦りむいて、ケーキは落とした。
だが、そんなことがどうでも良くなるくらいの光景が、眼前で起こっていた。
自分の父親が、赤い液を流して倒れているのだ。
自分の目の前で、動かないまま。
ケーキの白いクリームと、父の鮮やかな赤が混ざり始める。
床にこぼれるジュースみたいに、血はどんどん広がっていく。
響くクラクション。
折れ曲がったガードレール。
誰かの悲鳴。
観衆の目。
それらすべて、当時十歳のレンが状況を飲み込むには、相当の時間を有した。
やっと出た一言は、情けないくらい小さな言葉。
『父さん?』
返事はない。
雪だけが、静かに降っていた。
幼いレンは、震える足で立ち上がる。
転んだ拍子に擦りむいた手のひらがじんじん痛む。けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
『ねぇ、父さん』
一歩。
雪を踏む音が、小さく響く。
『……起きてよ』
また一歩。
父の近くへ行こうとするたび、靴裏に何かが張りつく感覚がした。
赤い液体。
それが、自分の靴を汚している。
理解したくなかった。
父が倒れている理由も。
動かない理由も。
周りの大人たちが、青ざめた顔をしている理由も。
何もかも。
『父さんってば』
赤く染めあげられた歩道に膝をつき、地面触ると、べったりと鉄の匂いがした。公園にある鉄棒とは違った、不快な匂い。
この血が自分の父から流れているものだってことを、信じたくなかった。
どうしても、あれが嘘だと思いたくて、父の手に触れようとした。
その瞬間。
『触るな、こっちにおいで!』
誰かが、後ろからレンの両脇を掴んだ。その力は強く、すぐに大人は立ち上がると、レンの足は浮いてしまった。
『やめてよ!!』
知らない大人の腕の中で、必死にもがく。
『離せよ!!父さんが!!』
声が裏返る。
けれど大人は離さない。
ただ苦しそうな顔で、レンを抱き締めていた。
遠くで、誰かが救急車を呼んでいる。
クラクションは、まだ止まない。
雪は降り続ける。倒れた父の姿を、必死に覆い隠すように強さが増していく。
潰れたケーキの箱が、道路の端に転がっている。
『父さんっ!!』
叫ぶ…… 叫んでも。
倒れた父は、もう動かなかった。
そこで。 現在のレンが、ついに限界を迎えてしまった。
父さんが死んだ、こんな情けない息子を守る為だけに?
おかしい、死ぬなら俺の方がまだ残りの家族は幸せだっただろうに。
どうして父さんが?
「ぁ……あ……」
呼吸が上手くできない。
視界が滲む。
頭の中で、あの日の音が何度も反響する。
ブレーキ音。
クラクション。
父の声。
『レン!!』
絶望に呑み込まれた、必死の叫び。
最後の父の言葉が自分の名前だなんて、信じたくない。
ーーどうして俺が。
「レン!」
今度は、別の声。
イロハだった。
彼女は再び、強く、レンを抱き締める。
沈んでいく意識を、必死に引き戻すみたいに。
「 見ちゃダメ!こんなのに呑まれないで!」
「違う……」
レンは震える声を漏らす。
「俺が、走ったから……」
「違う!!」
イロハが叫ぶ。
その声に、ヒナがぴくりと肩を揺らした。
「あなたは悪くない!」
泣きそうな声だった。
「子供だったのよ?仕方ないじゃない!!」
ようやくそこで、レンは話に反応した。 だが、最初の言葉は否定の言葉だった。
「”子供だった”……子供だったら人を殺してもいいのかよ?」
その低く乾ききったレンの声は、イロハは聞いたことがなかった。いつも自分に向ける声は、もっと柔らかくて暖かいはずだ。
「ちがっ、わたしはそんなこと言ってーー!」
遮るように叫んだ。
「俺のせいで死んだんだ、それのどこが違うんだ」
もうその時点で、イロハの唇は震えに震えてしまっていた。
こういう時、何を言えばいいのか分からない。正確には色んな言葉が浮かび上がってくるけれど、
どれもこれもレンに綺麗事として捉えられてしまいそうで。
ーー慰めだなんてものは、彼はいらない。彼は本気で、父親を自分で殺したと思っているの?
阿呆ね、一体誰に、そんな嘘を吹き込まれたの。
イロハは立ち上がった。レンを包み込んでいた腕を離して、慎重に立ち上がる。
そのまま彼の頭部を眺めた。口の中で何度も色んな言葉を発しようとして、結局は諦める。
それを六回続けたあとに、やっと。
「じゃあ、あんた。」
大きく息を吐いて、レンを傷つける覚悟ありで言う。
「そのまま一生、自分を殺していくのね……?」
返事を聞かず、表情も見ず、勝手に進める。
「どう見たって、あれは車が突っ込んできたんじゃない。悪いのは人が歩いてるところに突っ込んで行った車両でしょうよ……。
何勝手に、『自分が殺した』なんて思い込んでいるの?」
一言で言い切ってしまうと、イロハは胸が張り裂けそうなほど息がしにくくなった。
海に溺れた時のような、苦しさが自分を攫っていきそうになる。
ーーいいや、ここではわたしだけがまともな状態。ならここで、自己嫌悪に溺れる暇もない。
とにかくどんな形であれ、わたしが何とかしないといけない。
そもそも、こんな状況に巻き込まれたのは、わたしのせいだもの。
しっかりと足で自身を支え、堂々とした立ち姿で言い放つ。
「過去の残酷さを、すべて自分のせいにしてまとめて、自分の中で解決しようとする。……それは良い行いとは言えないわ。」
冷や汗が伝う。
少しでも返答が間違えれば、レンの心は終幕を迎える。それだけは避けたい。
また聞こえなくなったのか、返事はなし。
今や、イロハは返事など求めてはいない。ちゃんと話を聞いて、言葉が届いているかが重要なこと。
イロハは胸に手を当て、心拍を確認する。
ドクドク、ドクドク、と。命は稼働しているが、少し稼働しすぎな速さ。
背中からは嫌な汗がびっしょり。自分が精神を傷つけられた時以上に、身体が拒絶反応を出している。
次の言葉を、頭の中で探し出していると。
「悲しそうな顔するんだね、さっきは余裕そうだったのに。」
振り向くと、ヒナがいた。
表情は変わることはない、だがけっして悪意に満ちた問いかけでもない。
「お兄さんが泣いてたら、あなたも泣きそうな顔してるよ。」
それ以降は話さなかった。ここからは、イロハの返答を待つ。
イロハはヒナを睨みつけた。拳を握り締める。
歯を食いしばって、なんとか目の前の少女に殴りかからないよう自分を制止する。
ーー怒りを向けたって意味もない。
ゆっくり深呼吸して、真剣な表情を作り上げる。
「大切な人だもの。泣いていたら、わたしも悲しい。あなたは、こんな光景見ても、何も思わないんでしょうけど。」
最後の言葉は、ヒナに対する苛立ちを遠回しに伝えたものだ。イロハは心の中で、別に最後の言葉はいらなかったじゃない?と、自分を正す。
するとヒナは、小さく目を見開いて、こう答えた。
「ううん、こうやって人が泣くところを見るの、ヒナも嫌い。」
ヒナはそこで、一瞬だけ目を伏せた。
「血も怖い……怒られてるから」
ワンピースの裾を掴んで、引っ張る。
だけれど、すぐに顔を上げて「でも、これでママに会うの。全部ママに会うため。」
言いながら、 自分がどんな顔をしているのかも分からないみたいに、 ヒナは小さく首を傾げた。
「……会いたいよな」
レンがそう呟いた瞬間。
幻想が、また揺らいだ。 場面が切り替わる。
切り替わった景色は、暗い部屋だった。
こたつに入ってみかんを食べていたさっきの情景は、どこかに消え去った。
カーテンは閉め切られていて、 昼なのか夜なのかも分からない。
机の上には、 開かれていない薬の袋。
キッチンには洗っていない食器が放置されて。
ダイニングテーブルに、 母は、座っていた。
『……母さん?』
幼いレンの声。
ランドセルを背負った状態だから、夕方の時間帯だということが見て取れる。
母は反応しない。
焦点の合っていない目で、 虚空を見つめている。
『ねぇ』
返事はない。
こっそりと後ろから、ミヨが、不安そうにレンの服を掴んだ。
️『……』
ミヨが首をゆっくり、横に振る。
放っておいて、と言うように。
その時。
母の口が、ゆっくり動いた。
『……なんで』
掠れた声。
『どうして、あなたが死ななかったの』
その後の幻想の様子を、誰も直視しなかった。会話の内容も、表情も、何も見ずに。
ただひとつ、イロハがわかったことがあるとしたら。
ーーわたしは、なんの力にもなれない。
それでも、レンをひとりにしてはいけない。
それだけだった。
沈黙が落ちる。
水面が、ゆらゆらと揺れている。 白い空間なのに、どこか息苦しかった。
レンは俯いたまま、動かない。
肩が、まだ小さく震えている。
イロハは、唾を呑み込んだあと、口内を噛み締めた。痛みがじんわりと広がり、ささやかな自傷に浸る。
何か言わないと。 このままでは、本当にレンが壊れてしまう。
ーーでも、「何か言わないと」という焦りに呑まれて吐いた言葉は、それは本当に彼に届いてくれるのだろうか。
励ましはきっと届かない。
綺麗事も届かない。
正論ですら、彼を苦しめるだけ?
なら、どうすればいい。
イロハはゆっくり目を閉じた。 そして、小さく息を吸う。
ーーこういう時、どんな顔をすればいいのかしら。
悲しい顔なんて絶対ダメだし、笑顔はきっと傷がつく。
険しい顔をしてはダメ、責められていると受け止めるかもしれない。
それなら、いつも通りでいるしかない?
言葉も、無理に気を遣わない方が逆にいいのかもしれない。いいことを言おうと思うほど、余計に遠くなる気がする。
なら、自分で思ったことを、そのまま言うしかない。
これでもし傷つけてしまった時は、わたしはそれなりの罰を受けなければ。
しゃがみ込んで、小さく呟く。
「……辛かったわね」
その一言だった。
レンの肩が、びくりと震える。
イロハは続けた。
「怖かったわよね」
否定しない。
過去も。
痛みも。
後悔も。
全部、本当にあったものとして受け止める。もうそれしか彼女はできないのだと、思った。
イロハはレンの隣に座り込んだ。はしゃん、と波紋が広がる。
「ずっと、一人で抱えてきたの」
レンの唇が、小さく震える。
「一人じゃない」
けれどその言葉は、自分に言い聞かせているみたいに弱かった。
「母さんも、ミヨもいた」
「でも、あなたはずっと独りだった」
イロハは静かに言い切った。
「誰にも、“苦しい”って言えなかったでしょう」
レンの呼吸が乱れる。
幻想の中で。
幼いレンが、暗い部屋の前で立ち尽くしていた。
泣きそうなミヨの手を握りながら。 母親の壊れた顔を見つめながら。
それでも。
誰にも泣き言を言えずに。 ただ、“兄”でいようとしていた。
今のレンの瞳から、また涙が零れ落ちた。一粒、二粒、大きな水滴が、小さな波紋を作り出す。
「……だって」
声が掠れる。
「俺が、しっかりしないといけないだろ」
その瞬間。
ヒナが、小さく目を瞬かせた。
「どうして?」
純粋な疑問だった。
レンは答えられない。
代わりに、イロハがヒナを見る。
「この人は、優しすぎるのよ」
その声は、少しだけ震えていた。
第三十の月夜 「緑は嫌い」へ続く。
コメント
5件
レンの過去の状況描写が凄すぎて……そこから妹も失い、母にも辛く当たられる生活が待っているなんて😰イロハさんが救いになるよう、期待しております🙇
レン…強く生きてくれ(泣)
うわあ……第35話、すごく重くて、それでいて温かい話でしたね。レンのトラウマが鮮明に描かれていて、特に「父さん?」って呼びかける幼いレンの絶望が胸に刺さりました。イロハの「辛かったわね」というシンプルな言葉が、逆に一番響くんですよね。無理に励まそうとせず、ただ隣にいることを選んだ彼女の優しさに、自分も救われる気がしました。ヒナの「どうして?」も、あの場面で核心を突いていて印象的でした。続きが気になります。