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家庭は自宅兼店舗のガソリンスタンドである。
私は、産まれこそよかったが、産まれてからの原因不明の体重減少から決して丈夫ではなかった。
このころの乳児は、良く病気になるが、私は殆ど毎日が病気と名付けられる状態だった。一週間の7日間のうち6日間は発熱している。母乳をなかなか、口にしないという、状況で粉ミルクなどを祖母なども与えいた。
また、家柄、家族総出の自営業であり、また、晩御飯の時間と繁忙時間が重なるのは飲食店と同様だ。
当時は、またセルフガソリンスタンドという自分でガソリンを入れる法律などなかった。
そして1歳になるころにはすでに母には次の子がお腹にはいた。
私には2つ離れた兄がいたが、祖父からすれば初孫であり、家督というものが存在する家では兄はこの一家にとって最優先事項であり、祖父にとって私の存在など二の次である。そして、家督などに重きを置く家庭にとって最も厄介なのは序列である。
ここで、ある地域の名残の話をする。家督が存在するお家事情とでもいいましょうか?
まだそんなに昔の話ではないのですよ?
戦後の話です。敗戦した日本はとても貧しく、家督を繋いでいくことに貧しい人々は必死であり必至であった。
そして、そのような家庭では次男や三男などは、戸籍法ができている以上はお役所に戸籍を届け出る義務があったが、名前は「厄介」など三番目に産まれた子には「三」というようにもはやただの労働のためのものとして家畜のように扱う地域も存在していた。
また、知識として知っておいてほしいから綴ることとしますが、この次男や三男、ましてや娘は「厄介物」として存在し、字を読むことすら勉強することなくただ、ただ労働にあてがわれ、病気になると閉じ込めてそのまま死なせるということは、まだめづらしくもない時代です。これがまだ100年も経過していない日本なのです。
続けましょう。そしてその厄介が、住まう場所を厄介部屋として語られております。
またその厄介は日常生活には世間体というこれまた見栄えだけのある言葉により、家の隠された場所で生活をしなければなりませんでした。そこでよく使われていたのが「屋根裏部屋」でございます。
日本のところどころにこの「屋根裏部屋」のことを「厄介部屋」という地域がございます。皆様もご高齢の方にお話を伺ってみてほしいところでございます。現代という言葉が正しいか何とも定義がややことなりますが、「ロフト」というととても響きが良いものになりますね。
説明が長くなりましたが、祖父の時代では家督を継ぐ長子以外はどうでもよいということが鮮明に意思表示されており、長子、私で言うところの兄は何をしても許される権利を生まれながらにてにいれてました。
それはそれは、父が兄を怒ろうとすると、祖父が父を怒鳴る。兄はそれを3歳にして身につけておりました。1歳の私はよく蹴られたりしてたようです。
私の生まれた土地は平野で水位が低くとも有明海のお陰で洪水は起きたことがないようなところでしたが、1歳の6月、大洪水が発生しました。
高台から綱を繋ぎ逃げ遅れた人を綱で助けまわる。まだ地域のつながりが強い地域ならではといったところでしょう。
ここでやはり家督という問題があり、私は洪水の中、家に取り残されていたようです。
その時の祖父は、
「兄が助かったのだからあいつはいい。間に合わなかった。」
母は絶対服従のため何も言わず。
父は「とりあえず行けるとこまで行く。」
父が綱をつたい、ちちの身長約171センチほどの腰より上まで満ちた水の中、私は奇跡的にも安物の畳、安物のクッションのお陰でその水にきれいに浮いていました。
父は私を肩に背負い綱をつたい奇跡的にもその洪水でなくなったのは誰もいませんでした。
祖父の言葉「チ、生き残りやがった。」
母は小さく舌打ちして小言のように呟いたその言葉が聞こえたようです。
2歳編へ続く