テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ギャンブル
泡咲めろあ🫧🪄
843
りんご
904
夕暮れの山道を、二人は歩いていた。
西の空が赤い。
木々の隙間から差し込む光が、道に長い影を落としている。
葛城佐衛門は無言だった。
その少し後ろを、旅僧が歩いている。
鬼哭村を離れてから、二人ともほとんど口を開いていない。
ふいに。
旅僧の懐で、何かが震えた。
「……?」
足を止める。
封印札だった。
取り出してみると、白かった札の中央へ、墨を滲ませるように文字が浮かんでいた。
――師。
「葛城殿」
佐衛門が振り返る。
「何だ」
「これを」
札を差し出す。
佐衛門は一瞥した。
珍しく眉を寄せた。
「嫌な予感しかしないな」
「葛城殿にも、苦手なものが?」
「ある」
即答だった。
「説教が長い奴だ」
旅僧が苦笑する。
その時だった。
「馬鹿弟子」
山の奥から声がした。
佐衛門の足が止まった。
風が止んだ。
鳥の声も消えた。
旅僧が振り返る。
佐衛門だけが、動かなかった。
「……お師さん」
声が、僅かに掠れていた。
倒れた大木の向こう。
薄暗い山中に、巨大な影が立っている。
三丈はあろうかという巨体。
灰色の毛。
長い腕。
腰には、見覚えのある酒瓶。
そして――左目を失った顔。
佐衛門は、しばらくその姿を見つめていた。
間違えるはずがない。
忘れるはずもない。
三百年経っても。
あの声だけは。
「……生きてた」
ぽつりと呟いた。
旅僧が佐衛門を見る。
佐衛門は気付いていない。
ただ師匠を見ている。
昔。
まだ刀の握り方さえ知らなかった頃。
何度も叩かれた。
何度も投げ飛ばされた。
何度も山を走らされた。
腹が減ったと泣けば、
『泣く暇があるなら飯を探せ』
と怒鳴られた。
冬の夜、凍えて眠れなかった時には、
『死ぬな』
とだけ言って、自分の毛皮を投げて寄越した。
刀を教えられた。
人を見ることを教えられた。
妖を見ることを教えられた。
そして。
別れの日だけは。
何も教えてくれなかった。
「お師さん」
もう一度。
佐衛門が呼ぶ。
妖怪は首を傾げた。
「……誰だ、お前」
その一言で。
佐衛門の顔から、わずかに表情が消えた。
「初対面だろう?」
妖怪は本気で困っている。
佐衛門は何も言わない。
刀の柄に置いた手だけが、少し震えていた。
旅僧は見なかったことにした。
妖怪は腰の酒瓶を取り上げる。
「酒でも飲むか?」
佐衛門の目が、酒瓶へ落ちる。
「……相変わらずだな」
「何が?」
「酒だ」
「酒は酒だろう」
「そういうところだ」
妖怪は首を傾げた。
佐衛門は一歩近づく。
「覚えていないのか」
「何を」
「私を」
「……悪いな」
妖怪が頭を掻く。
「どうにも思い出せん」
「そうか」
短い返事だった。
それだけ。
だが。
佐衛門は、それ以上近づかなかった。
三百年。
待っていた。
いつかまた会えると思っていたわけではない。
死んだと思っていた。
だから、もう一度会えただけでよかった。
ただ。
欲を言えば。
一言くらい。
『遅かったな、馬鹿弟子』
そう言ってほしかった。
「……酒」
佐衛門が言った。
「ん?」
「一杯、くれ」
妖怪が目を丸くする。
「お前、酒飲めたか?」
「飲めるようになった」
「そうか」
妖怪が酒瓶を差し出す。
佐衛門は受け取った。
口をつける。
一口。
顔をしかめる。
「……まずい」
「何だと?」
「三百年前より酷い」
「三百年前?」
妖怪の手が止まった。
佐衛門も止まる。
「……何か、思い出したか」
「いや」
妖怪は頭を押さえた。
「ただ、その言葉が……」
眉間に皺が寄る。
「妙に懐かしい」
佐衛門は黙っていた。
「三百年前……」
妖怪が呟く。
「俺は、お前と……」
そこで。
妖怪の顔が歪んだ。
「ぐ……」
巨体がふらつく。
佐衛門がすぐに支える。
「お師さん!」
「触るな!」
妖怪が腕を振り払う。
その声に、昔の怒鳴り声が重なった。
『馬鹿弟子!』
佐衛門の手が止まる。
妖怪自身も、驚いたように口を閉じた。
「……今の」
旅僧が呟く。
佐衛門は妖怪の首筋を見る。
灰色の毛。
その奥。
黒いものが張り付いている。
小さな蛭。
ぬらりと蠢き、皮膚へ牙を突き立てていた。
佐衛門の目が細くなる。
「そうか」
刀の柄へ手を置く。
「お前か」
蛭が動いた。
声はない。
口もない。
それでも。
笑った。
佐衛門の頭の中へ、直接響く。
「みつけた」
佐衛門の目から、温度が消えた。
「人の記憶を喰うのは構わん」
一歩。
「名前を喰うのも構わん」
柄を握る。
「だが」
蛭へ視線を据える。
「お師さんに手を出したのは――」
刀が、僅かに鳴った。
「気に入らんな」
*
蛭を斬り伏せた後。
山に静けさが戻った。
妖怪は、地面へ座り込んでいる。
佐衛門が隣へ座った。
旅僧は少し離れたところにいる。
しばらく誰も喋らなかった。
妖怪が酒瓶を眺める。
「……なあ」
「何だ」
「本当に、お前は俺の弟子なのか」
「そうだ」
「俺が教えたのか?」
「ああ」
「何を」
佐衛門は少し考えた。
「色々だ」
「例えば?」
「刀」
「俺らしいな」
「飯の炊き方」
「大事だ」
「山で迷った時の歩き方」
「なるほど」
「人の見方」
妖怪が黙った。
「妖の見方」
さらに黙る。
「それから」
佐衛門は火を見る。
「別れ方」
妖怪が佐衛門を見る。
「別れ方?」
「ああ」
「俺は、そんなもの教えたか?」
「教えなかった」
妖怪は困った顔をした。
「そうか」
佐衛門は酒を飲む。
「それが、一番困った」
妖怪は何も言わなかった。
やがて。
「……悪かったな」
佐衛門の手が止まる。
「何が」
「分からん」
妖怪は笑う。
「何も思い出せんから、何を謝ればいいのかも分からん」
佐衛門は俯いた。
「そうか」
「でも」
妖怪が続ける。
「お前が俺を見る目は、嘘じゃない」
佐衛門が顔を上げる。
「だから」
妖怪は酒瓶を差し出した。
「もう一杯飲め」
「……師匠」
「何だ」
「酒は一杯までだ」
「昔は三杯飲んで倒れてたくせに」
「覚えているのか」
妖怪は目を瞬く。
「……さあ」
佐衛門が笑った。
本当に小さな笑いだった。
「そうか」
二人は酒を飲んだ。
昔と同じ味だった。
まずくて。
辛くて。
少しだけ、懐かしかった。
*
夜。
焚き火が小さく燃えている。
旅僧は眠っていた。
佐衛門は一人、火を見ていた。
隣では、師匠が酒瓶を抱えたまま眠っている。
「……お師さん」
返事はない。
佐衛門は、少しだけ師匠の顔を見る。
三百年。
長かった。
自分だけが歳を取った。
師匠は妖怪だから、ほとんど変わっていない。
それが嬉しくて。
同時に、少し腹立たしい。
「ずるいな」
小さく呟く。
師匠は眠ったまま。
「私だけ、こんなに覚えてる」
火が爆ぜた。
佐衛門は懐から封印札を取り出す。
――師。
その下に、新しい文字が浮かんでいた。
――参 開。
佐衛門は目を細める。
「お師さん」
眠っている師匠を見る。
「今度は、私が忘れさせない」
札を握る。
「何があっても」
山の奥で。
遠く、何かが鳴いた。
師匠の隻眼が、ゆっくり開く。
「……馬鹿弟子」
寝言だった。
佐衛門の手が止まる。
しばらく。
何も言わなかった。
やがて。
「……はい」
小さく返した。
師匠は、もう眠っている。
佐衛門は火へ向き直った。
その横顔には、ほんの少しだけ笑みが残っていた。
コメント
1件
読んだわ、第四話「隻眼の師」……! いやもう、すごく良かった。 三百年ぶりの再会、しかも師匠が記憶を失ってるってのが辛すぎる。「誰だ、お前」の一言で全部持ってかれた。覚えてるのは弟子だけって、ずるいよな……。 でも、酒のシーンで昔と変わらないやりとりができてて、そこにグッときた。「まずい」「三百年前より酷い」って言える関係、ちゃんと残ってるんだなって。 最後の「馬鹿弟子」の寝言で、もうダメだった。泣くわ。