「咲、今夜は俺の部屋に泊まるか?」
後片付けをしながら、藤川課長が成瀬に聞いた。藤川課長は反応を楽しむように、横目でちらりと俺を見て続けた。
「具合悪いんだろ」
「大丈夫。真は明日の朝一で部長に提出する調書を仕上げて」
成瀬は自分のPCをしまいながら言った。
「わかった。お前は少しでも食って、ゆっくり休めよ」
「うん」
俺と成瀬が喫煙室から戻ると、藤川課長は必要な領収書のコピーを取り終えて、ファイルを書庫に戻しているところだった。領収書と申請書、清水のPCにあった日付と写真があれば、清水を懲戒免職に追い込むには十分だ。藤川課長は匿名の告発があったことにして明日の朝、調書を総務部長に提出することになった。侑が写真の人間の顔認証を終えたら、清水と共犯関係の社員も懲戒免職となるだろう。
「築島課長、咲をタクシーで送ってもらえますか?」
藤川課長が、侑と電話している成瀬に聞こえないように、小声で言った。
「いいですけど……」
「あいつ相当参ってるようだから、一人にしたくないんで」
藤川課長は成瀬の自宅の住所を書いたメモを差し出した。
「わかりました」と言って、俺はメモを受け取った。
会社を出てすぐにタクシーを捕まえて、俺と成瀬は後部座席に並んで座った。
「課長が先ですよね」と成瀬に言われて、とりあえず俺は自宅の住所を運転手に伝えた。
俺のマンションまで十分ほどのところで、俺は沈黙を破った。
「退職願、本当に出すのか?」
「出します……」
成瀬はダルそうに言った。かなり具合が悪そうだ。
「なら、今から書け。明日の朝一で部長に提出してやる」
俺は強い口調で言った。
成瀬とまともに話したのは歓迎会の夜と、今日の数時間だけだったが、なんとなく彼女の扱いがわかってきた気がした。
今、体調を労わって成瀬の部屋まで送ると言っても、素直に受け入れないだろう。
基本的に、成瀬は気が強くて負けず嫌いだ。だから、この状況でそう言えば、無理をしてでも退職願を書こうとすると思った。
「わかりました。認印を持ち合わせていないので、私の部屋に向かってもらっていいですか」
成瀬はあっさりと運転手に自宅の住所を伝えた。
成瀬が住むマンションは、俺のマンションから車で十分ほどの場所にあった。
成瀬が部屋に入ったら帰ろうと思っていたが、無表情に「どうぞ」と言われて、俺は彼女の部屋に上がった。
女の部屋っぽくないな……。
成瀬の部屋を見て、そう思った。女特有の『可愛い』印象が持てなかった。
主にグレーを基調とした家具で統一されていて、飾り物などは一切ない。家具もテレビとテーブル、ソファ、本棚があるだけだった。
成瀬に促されてソファに腰かけ、俺は言った。
「食事してくれば良かったな」
「こだわりがなければ、用意しますけど」
成瀬が俺の前にコーヒーのカップを置きながら、言った。
「真から私のこと頼まれたんでしょう?」
「知ってたの?」
「『泊まるか?』なんて聞かれたことないので」
聞くまでもなく、いつも一緒にいるってことか――。
俺はゆっくりとコーヒーに口をつけた。成瀬がその様子を見ている。
熱くない……。
『課長、猫舌ですか?』
一昨日の夜、成瀬がそう聞いたのを思い出した。
飲みやすい温かさにしてくれたのか……。
俺は会社では聞けなかった問いを投げた。
「藤川課長と付き合ってるのか?」
台所から、成瀬が目を丸くして俺を見た。
「侑から聞いてません? 従兄妹です」
今度は俺が目を丸くした。
「いと……こ?」
「はい。私の父と真の母が兄妹なので、苗字は違うんですけど」
成瀬はレンジを操作しながら言った。
「そう……なんだ」
なんだ……従兄妹か――。
成瀬と藤川課長が恋人同士ではないとわかって、思っていたよりも嬉しかった。
「子供の頃から一緒に暮らしたこともあるので、従兄妹というよりは兄妹の感覚ですけど。あ、でもこれは社内では秘密にしてください」
成瀬はテーブルの上に次々と料理を運んできた。ご飯、みそ汁、根菜の煮物、豆の……天ぷら? 魚のフライ……。
「すごいな……」
思わず呟いた。
「さすが、湯山さんイチオシの咲ちゃん」
「一人暮らしが長いですから」と言いながら、成瀬は缶ビールを差し出した。
「いただきます」
俺は胸の前で両手を合わせて、ビールを開けた。
「何してる?」
食事を終えると、成瀬がテーブルの上に便箋とペン、印鑑を出した。
「退職届、書きます」
「本気か?」
「本気ですよ」と言って、成瀬は便箋の一行目に『退職願』と書いた。
「だから、これに承認印を押して部長に提出したら、今日のことはすべて忘れてください」
「俺を味方に引き込もうとは思わないのか?」
「思いません」
完全、拒否ね……。
俺は便箋を滑らせ、テーブルから落とした。
「辞めさせないよ」
「どうしてですか?」
ようやく顔を上げた成瀬は、無表情。また、成瀬の寝顔が頭に浮かんだ。ギャップがありすぎて、同じ女とは思えなかった。
この顔は嫌いだ――!
「お前、なんでこんな仕事してる?」
成瀬は数秒考えてから、答えた。
「社内の不正を暴くため……って言えば納得します?」
「するわけないだろ」
「じゃあ……私の趣味ってことにしておいてください」
「はぁ?」
「辞めるって言ってるんだから、それでいいじゃないですか」
成瀬はあからさまに面倒くさそうに、ため息をつき、便箋を拾った。
「お前ら三人とも、俺をなんだと思ってるんだよ」
やっぱりムカつく――!
「三人?」
「侑はもったいぶったことしか言わねーし、藤川課長は馬鹿にしたように『忘れろ』とか言うし、お前は『辞める』って言うし!」
俺は社長の息子だからと見下されるのが許せない。だから、兄たちとは違って現場から実力で勝負してきた。それなりに実績も上げてきたし、人脈も築いてきた。その俺が、まさに『社長の息子』だからと馬鹿にされて蚊帳の外に出されるとは。
何よりも、成瀬が俺の問いに本音で答えようとしないことが腹立たしい。
説明するのも煩わしいってことか!
「俺はそんなに信用できないか。そんなに頼りないか! 俺はお前らに守ってもらわなきゃならないほど弱くないし、ここで引き下がるほど臆病でもないぞ‼」
「そんなこと、思ってません!」
成瀬が声を荒げたのを、初めて聞いた。
「本当に……、私のことが誰かにバレたらきっぱりと辞めるって決めていたんです。課長が頼りないなんて思ってません――」
成瀬が泣きそうに見える。
「『忘れて』って言ったのは……、中途半端に事情を知れば、知らなかったことには出来なくなるでしょう? だけど、課長を巻き込むのは誰にとってもリスクが大き過ぎる。それに――」
成瀬が必死に自分の気持ちを伝えてくれている。俺は黙って聞いていた。
「課長が庶務課にいるのは一時のことでしょう? 深入りするのは――」
成瀬が顔を伏せた。
成瀬が泣いている気がして、俺はソファを立ち上がり、成瀬の隣に膝をついた。
「悪い……大人気ないこと言ったな」
成瀬が首を振った。
「お前が辛そうだったから、心配だったんだよ――」
成瀬は肩を震わせていた。
俺は出来る限り優しく成瀬を抱き締めた。
昨日の朝と同じ、甘い香りがする。
「今更……忘れるとか無理だろ」
『成瀬に惚れたか?』
昨日の侑の言葉が浮かんだ。
そうだ……。
俺は、成瀬に惚れたんだ――。
「辞めるなよ」
「だけどっ――」
顔を上げた成瀬は、昨日の朝と同じように顔を赤らめて、うっすらと涙を浮かべていた。
庶務課で働く成瀬咲。
極秘戦略課課長の成瀬咲。
『オス』を求める成瀬咲。
俺の腕の中で無防備に眠っていた成瀬咲。
どの彼女も、成瀬咲だ。
それなら、俺はどの彼女のことももっと知りたい。
もっと、彼女に近づきたい。
俺は、成瀬の唇にそっと口づけた――。