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頭が真っ白になった――。


ファーストキスでもないのに、唇が触れるだけの優しいキスに、何も考えられなくなった。

「頼むから……『へたくそ』はやめてくれな」

唇が離れると、課長が言った。

「あれはっ――!」

私は恥ずかしくなって、顔を伏せた。

「威嚇の意味で言っただけで、偉そうなこと言えるほど……経験……ない……」


あれ……? そういえば――。


言いながら、私は気が付いた。


気持ち悪くない……。


「課長! あのもう一度――」

勢いに任せて、自分がとんでもないことを言おうとしていることに気が付いた。課長と目が合って、また恥ずかしくなる。


もう一度キスして――。


「なんでも……ない……です……」

私は声を絞り出した。

恥ずかしすぎる。

「成瀬……」

耳元で囁かれて、自分の鼓動がスピードを上げていくのを感じた。課長の手が私の首筋に触れる。緊張や恥ずかしさで身体が火照っているせいか、課長の手がやけに冷たく感じた。


気持ちいい――。


私は半ば無意識に目を閉じた。

もう一度、課長の唇が私の唇に触れた。


やっぱり、嫌じゃない……。

どうして――?


「えーーーっと……」

課長が私を見て、少したじろいだ。

「嫌だった?」

「え?」

「いや……。なんか難しい顔してるから」

課長が心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「あっ、すみませ――」

「二人の時は敬語やめない?」

私の言葉を遮って、課長が言った。

「成瀬の気持ち次第だけど、少なくとも俺は成瀬を部下としてでなく、女として見てるから……」

「でも……」

「やっぱり、嫌だった?」

「嫌ではっ……ない……?」

「疑問形?」

あからさまに課長が肩を落とすのがわかった。


どうしよう……。


ただでさえ恋愛経験が少ないうえに、男性と二人きりの時間なんて久し振り過ぎて、会話もままならない。あとひと月ほどで三十歳の誕生日を迎えるというのに、あまりに未熟な自分が恥ずかしい。

「成瀬、誤解のないように話しておきたいんだけど――」

考え込んでいる私を見兼ねてか、課長が口火を切った。

「聞きたいことは色々あるが、まず、俺は成瀬を糾弾するつもりはない。もちろん、藤川課長もだ」

「……はい」

「それから、お前の仕事を邪魔するつもりもない。だから、お前が退職届を書く必要はない」

「それはっ――」

「まずは聞いてくれ」と課長は諭すように言った。

私は口を閉じた。

「俺が今日会社に行ったのは、もちろん侑に仕向けられたのもあるけど、俺自身が成瀬のことを知りたいと思ったからだ。まさかの事態ではあったけど、知らなきゃ良かったとは少しも思ってない」

私は黙って頷く。

「それから……、一昨日は偉そうな……というか失礼な態度をとったけど、半端な気持ちでキスしたわけじゃないから」

課長は真っ直ぐに、私の目を見ていた。

「知り合って間もないし、お互いの立場とか状況を考えると、今の感情を『好きだ』って一言で済ませてしまうのは違う気がするんだけど……」

課長の言わんとしていることが、よくわかる気がした。今『好きだ』なんて言われても、素直に受け入れられる気がしない。自分が課長のキスを受け入れた気持ちも、『好きだから』かと聞かれると、何か違う気がした。

「何か……都合のいいこと言って悪いんだけど――」

課長が伏し目がちに言った。

「わかる気がします……」

私はぽつりと言った。

「いやっ! わかられるのも違う気がする‼」

課長が慌てて顔を上げた。

「成瀬のことは好きなんだよ。じゃなきゃキスしたいなんて思わないし、欲求不満だけで部下に手を出すなんて見境のないこともしない。だけど、それだけじゃないって言うか……」

いつも余裕で、自信たっぷりの課長の必死な姿を見て、私は思わず笑ってしまった。

「ふふ……」

「笑うか?」

「だって……、そんな必死な課長、初めて見たから……」

「いや、確かに俺も自分で何を言ってるんだか――」

課長は恥ずかしそうに前髪をかき上げた。

「つまりだ! 俺が言いたいのは、お前には庶務課を辞めてほしくないし、お前のことをもっとよく知る時間というかチャンスが欲しい」

手を離すと、課長の前髪がさらりと落ちてきた。


さらさら……。


前にもこうして課長の柔らかそうな髪に触れたいと思ったことを、思い出した。


課長の前でなら、少しは素直になってもいいだろうか……。

課長なら、自分でも名前を付けられずにいるこの感情を受け止めてくれるだろうか……。


「私も……同じです。課長の髪に触れたいと思うとか、キスが嫌じゃなかったくらいには、課長のこと好きです」

言葉にして、自分でも驚くほど自分の感情にしっくりきた。


ああ……、私は課長が好きなんだ――。


「俺も大概なことを言ったけど、お前も随分だな……」

「そう……ですよね。でも、私にしてはかなりレアな感情です」

「どの辺が?」

「他人に、しかも異性に触れたいと思ったのは初めてです。キスが気持ち悪くなかったのも、初めてだと思います」

「キスが……気持ち悪いの?」

課長が怪訝そうな顔をした。

「今までは、気持ち悪かったです」

「前も思ったけど、成瀬って今までの彼氏のこと好きじゃなかった?」

「ここまで言っといてアレですけど、昔話はやめません?」

自分の数少ない恋愛経験が歪んでることは自覚している。

「いや、情報は多い方がいいだろ」

課長が真顔で言い切った。

「秘密にそそられるってこともありますよ?」

「俺に秘密なんてないぞ」と言ってから、課長は私の顔をじっと見た。何かに気が付いたように、表情に焦りが見え出す。

「ちょっと待った……」


さすが……勘がいいな。


「恥かく前に聞いとくけど、どこまで知ってる?」

「……聞きます? それ」

「侑?」

あ、やっぱり聞いちゃうんだ。

「いえ、侑が誤魔化したんで自分で調べました」

「マジか……」

課長は項垂れた。

『すみません』と言うのも違う気がして、私は言葉を選んだ。けれど、謝罪も言い訳も慰めも言う気になれなかった。

「課長も……侑に調べさせたんですよね?」

「え……」

「侑からは何も聞いてませんよ? でも、課長の急な異動は理由がありますよね? それに、侑の言動を考えたら――」

言っていて、自分が情けなくなった。いつもこうだ。仕事とプライベートを分けられない。

上司とはいえキスをした相手を前に、余韻に浸ることもなく頭が仕事モードに切り替わる。

「お互い、話し出したら朝になりそうだから、この話は今後じっくり話そうか」


そう言って、課長はもう一度私にキスをした――。


「あ」と言って、課長は唇を離した。

「退職届はなし、ってことは納得してくれた?」

私の腰を抱く課長の腕に力が入る。

「提出されても承認する気はないけど、職場の雰囲気は壊したくないから。それに、せっかく距離を縮められたのに、無駄な言い合いで気まずくなりたくない」

「わかり……ました」

私は小声で言った。

「あれ? 歯切れ悪くない?」

「だって……」

「だって?」

「こうゆうの慣れてないんです。何でもない顔をして仕事をする自信がない――」

自分の体温がグングン上昇してくのがわかる。年甲斐もなくキスに翻弄されている自分が恥ずかしくなった。

「そんな可愛いことを言われると、仕事中に思い出してにやけそうだ」

課長は嬉しそうに目を細めると、私の瞼にキスをした。

「これ以上は理性に自信が持てないんで、そろそろ帰るよ」


私たちは本日最後のキスをした――。

女は秘密の香りで獣になる

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