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ここに来る数日前のことだ。
「兄貴!」
満面の笑みを浮かべて走ってきたのは、一番下の弟だ。
「僕、就職できたよ! 兄貴のおかげだ!」
あまりにも明るい声に釣られて、俺も自然と笑みが溢れた。
「おぉ! よかったな、勇太!」
「うん!」
「兄貴がいつも頑張ってくれたからだよ、ありがとう」
幼い頃はあんなに頼りなかった勇太がそんなことを言えるようになるなんて。俺は感激から涙が出そうだった。
「……それは違うな」
「え……?」
「就職出来たのは勇太が頑張ったからだ。おめでとう」
勇太の表情がパァっと明るくなる。釣られて俺も微笑んだ。
うちは母子家庭で四人兄弟だった。母親一人で育てていくには無理があった。幼い頃から家事を任され、中学卒業したら就職して弟たちの学費を稼いでいた。
家族の笑顔を見るのは好きだが、友人と遊ぶことも将来の夢も諦めてずっと支え続けてきた。
「良かった。本当に良かった……」
自らを犠牲にしてがむしゃらに生きてきた人生が、やっと報われた。
弟も妹もみんな優秀だ。俺が必死に学費を稼いだので、大学や専門学校を出て立派な仕事に就くことができた。
(俺は……)
中卒で小さな便利屋で働いていた。俺は、この仕事が好きだった。
汚くなった部屋を、俺の手で新品同様に磨き上げる。すると依頼人が、明るい顔を見せてくれる。あの瞬間が好きで、俺は毎日走り回っていた。
若くてこの仕事をしている人は少なく、うんと年上の上司からは可愛がられていた。
「真白君、今日もありがとうな」
そんな言葉をかけられるたびに、自分の手は誰かの生活を支えているんだと実感できた。
この仕事は俺のやりがいであり生きがいだった。
「兄貴、また手荒れしてるぞ。大丈夫か?」
弟たちが心配そうに俺の荒れた手を見る。俺は笑って答える。
「大丈夫だ。この手は、お前たちが立派になるための勲章みたいなもんだからな」
自分の人生は、便利屋としての技術と、家族への愛だけで積み上げてきた。
だからこそ、俺はどんな仕事も手を抜いたことはない。たとえどれだけ理不尽な客でも、目の前の汚れと向き合う時は、常に真剣だった。
……だから、今回もそうするつもりだった。
これが最後になるなんて、知る由もなく。
その日、変な客に絡まれていた。
アパートの退去の仕事だ。社宅なのだろうか、8階建ての大きな建物だ。築何年だろう。
エレベーターはなく、薄暗い外廊下から剥き出しの階段を上る。一歩踏み出すたびに錆びて軋んだ音が足元から響いた。
依頼主の部屋に一歩踏み入れると、息が止まりそうになった。
中には床が見えないほど物が散乱しており、油ぎった汗と腐った食べ物の臭いがする。思わず顔をしかめた。よく見ると黄ばんだ液体の入ったペットボトルまで並んでいる。
(あぁ……気持ち悪いな)
「おいっ! 何て言った? お前、もう一度言ってみろ」
粕谷カズオ。53歳。禿げた中年太りのおっさん。この部屋の契約者だ。そして今回の依頼主。俺は大きくため息をつく。
「この状態だと、退去までに三日かかります。あと割増料金になるっすね」
「ふざけんなよ! 三日だと!? 今日中に終わらないと、こっちは困るんだよ!」
「無理っす。現場の判断じゃどうにもならないんで、一旦会社に戻って上司と相談します。管理会社にも連絡入れておいてください」
(……はぁ。会社に電話して、この案件は代わってもらおう。めんどくさすぎるだろ)
おっさんに背を向け、報告のためにスマホを片手に階段へ向かう。すると、背後から怒りに任せた足音が迫ってきた。
「勝手に帰るなよ、クソ野郎! まだ話は終わってねえんだよ!」
おっさんは叫びながら、俺の胸ぐらを掴んできた。
(なんだこいつ……!)
必死に抵抗すると、取っ組み合いになった。 おっさんの目は血走り、何かに追い詰められたような目だ。全身から汗が吹き出してくる。
(殺される……!)
「何するんすか、警察呼びますよ!?」
「クソ野郎、調子に乗んな!」
凄まじい力で胸倉を押され、俺の体は階段の下へと放り出された。
(しまった……!)
抗う術もなく、背中からコンクリートの段差に叩きつけられる。
視界が激しく回転し、最後に後頭部が激突した。目の前が真っ白になる。遅れてやってきた凄まじい激痛に、呼吸が止まる。
(あ……死ぬ)
霞む視界の先、階段の上にいたおっさんが勢い余って激しくよろめいた。
バキッ!
嫌な金属音が響く。
長年放置され、腐食していた手すりの根元が、おっさんの巨体の重みに耐えきれず、根元からへし折れた。
「う、うわあああっ!?」
おっさんはそのままの勢いで、八階の高さから真っ逆さまにコンクリートへ凄まじい音を立てて叩きつけられた。
おっさんの動く音は聞こえない。俺もまた、動くことはできなかった。
(……嘘、だろ……)
視界が急速に暗くなり、俺の意識は深く沈んでいった。
(……こんな所で……終わるなんて……)