月曜日の朝、杏樹は電車に揺られながら土日の事を思い返していた。
土曜の夜、杏樹は優弥の家に泊まった。
ベッドの上で二人は激しく燃え上がった。それは初めて会った日のようにだ。
土曜日丸一日優弥と過ごした杏樹は、優弥に対する緊張感はすっかり消え失せ一緒にいる事が心地良くなっていた。
精神面のリラックスは身体にも影響する。
だからあの夜少し酔った杏樹はベッドの上でかなり大胆に振る舞っていたようだ。そんな杏樹に優弥は更に夢中になる。
(私、本当は性欲が強いのかな? 正輝さんとはどちらかというと淡泊気味だったのに不思議ね。相手によってこんなに違うなんて…)
その時杏樹はベッドの上での優弥の動きを一つ一つ思い出す。
(あっ、思い出しただけで身体が疼いちゃう。駄目よ杏樹っ)
杏樹は慌てて咳ばらいをすると背筋を伸ばして吊り革をギュッと握った。
電車を降りた杏樹が駅を出た時後ろから声がした。
「桐谷さん、おはよう」
土日に嫌というほど耳元で聞いたその甘い声は今朝は少しクールな印象だ。
だから杏樹も儀礼的に挨拶を返す。
「副支店長、おはようございます」
二人はこの土日の間に今後について色々と話し合った。
この恋を長続きさせる為に、職場ではあくまでも上司と部下という立場を守り軽はずみな行動はつつしむ事。
もちろん二人が付き合っている事は誰にも知られてはならない。例え傍に同僚がいなくてもいつ誰が見ているかわからないので一瞬たりとも気を抜かない事。二人はそう決めた。
「同じ電車だったんだな」
「そうみたいですね」
表向きクールに接している二人だが日曜日の熱々ぶりは凄かった。
日曜の朝食も優弥が用意してくれた。杏樹が作ると言っても優弥はきかない。
だから杏樹は朝食が出来るまで優雅にソファーでくつろいでいた。
優弥が作ってくれた朝食はトーストにフワフワのオムレツ、それに三浦半島のフレッシュ野菜サラダだった。
食後の後片付けは杏樹がやると申し出ると、優弥は初めて杏樹をキッチンに立たせてくれた。
しかし片付けている間中、優弥はずっと杏樹を背後から抱き締めながら杏樹の耳や首筋にキスの雨を降らせる。
そのせいで杏樹は集中出来ずに片付けるのにかなりの時間がかかってしまった。
もちろんその後杏樹は再びベッドへ連れて行かれた。
(昨日の朝とは全然違う……クールな副支店長にもゾクッとしちゃう)
そう思った途端杏樹の身体がズキンと疼いたので杏樹は慌てて思いを振り払った。
その時優弥がボソッと呟いた。
「後ろに森田がいるから注意して」
「えっ?」
一気に緊張が走る。
歩きながらさり気なく後ろを振り返ると、人混みに紛れ正輝が二人に追いつこうと早足で歩いて来るのが見えた。
そして交差点の赤信号に足止めされた二人はとうとう正輝に追いつかれる。
しかし正輝は二人に気付かないふりをして声をかけて来ない。
(もしかして後ろから聞き耳を立てるつもり?)
杏樹は細心の注意を払う。優弥も真後ろに正輝がいる事に気付いているようだ。
そこで優弥がわざとらしく話しかけてきた。
「それにしても随分素敵な指輪を貰ったんだね。彼氏さんは優しいんだね」
杏樹はピンときて話を合わせる。
「はい。私の誕生石なので嬉しかったです」
「その石はなんていうの?」
「アクアマリンです」
「聞いた事あるなぁ。随分綺麗な色だよね」
「はい。それにこれはアクアマリンの中でもかなり上質な石らしいんです」
「へぇ、凄いな。今って金も値上がりしているだろう? もしかして桐谷さんの彼ってお金持ち?」
「いえ…そんな事はないですが…」
「お金持ちなら是非我が支店へ定期預金をお願いしてくれよ」
「副支店長ったら、それってパワハラですよー」
「そうかー、それはマズいなーハハハッ」
調子に乗り過ぎている優弥の事を杏樹が睨む。
すると優弥は可笑しそうに笑いをこらえていた。
その時真後ろで二人の会話を聞いていた正輝は、
(ハァッ? 二人が怪しいと思っていたけど俺の見当外れだったか? それに杏樹にはもう新しい恋人が出来たって? 嘘だろう?)
正輝はイライラしながら杏樹の左手に光る指輪を見る。そこには淡いブルーの美しい宝石が輝いていた。
(あんな高そうな指輪を杏樹に贈ったのは一体誰なんだ?)
正輝は無性に気になる。
その時信号が青に変わり信号待ちをしていた人達が一斉に歩き始めた。杏樹と副支店長も遠ざかっていく。
しかし正輝だけは呆然としたまましばらくその場に立ち尽くしていた。
杏樹がロッカールームへ行くと既に美奈子が着替えを始めていた。
「杏樹、おはよう! ハッ? 何それっ!」
鋭い美奈子はすぐに杏樹の指輪に気付いた。
「土曜日に買ってもらいました」
杏樹は他の行員に聞こえないようにボソッと伝えた。
そこで美奈子が大声で言う。
「ハァ―――ッ!? ちょっとその指輪見せなさいよっ!」
「なになに? 杏樹ちゃん彼氏にもらったの?」
「キャーッ、素敵―!」
「綺麗ーっ、これってアクアマリンだよね?」
ロッカールームはしばらく杏樹の指輪の話で持ちきりになった。
その日朝礼で珍しく支店長の葛西が口を開いた。
「えー、実は副支店長の黒崎君のお陰で来月初旬にうちの支店に検査が入るかもしれないという事がわかりました。あ、ちなみにこの情報はくれぐれも内密にお願いします。他の支店にも話しちゃ駄目だよ」
それを聞いた行員達がざわざわと騒めく。
「えー? もうそんな時期かぁ」
「年末近くに来てほしくないよねー」
「机とロッカーぐちゃぐちゃだよー」
検査とは本部の検査部が予告なしに支店を訪れ、預金業務の処理や融資案件の与信判断が適正に行われているかをチェックする。もちろん窓口業務の接客態度や行員の一日の動きも見られる。
銀行は定期的にこうした検査を実施し、行内の不正や顧客への忖度等に目を光らせているのだ。
検査の結果次第では役職者が地方へ飛ばされたり降格処分になる事もある。
そこで葛西が優弥にバトンタッチをした。
「おそらく過去5年分の取引内容を出せと言われる可能性もあるので、それぞれの課で不備のないよう準備しておいて下さい。それとロッカーや机には私物は一切入れないように。帰る時は鍵をきちんとかけてから帰るように。以上です」
そこで朝礼が終わった。
窓口に戻った美奈子が言った。
「検査の日程が前もってわかるなんてさすが黒崎副支店長! どんくさい上司だと情報全然入らないからねー。それだけ本部と太いパイプがあるんだね、さすがはエリートだわ」
「そうですね。でも検査が繁忙日に入らない事を祈ります」
「そうだね、来店客が多い日に来られたらたまったもんじゃないわ。本部の人ってさ、支店の都合なんてお構いなしだからねー参るよねー」
そこで開店時刻になり店がオープンした。
窓口にいる杏樹達はいつものように業務を開始した。
そして午前の仕事を終えた杏樹は早番で食堂へ行った。
「朝子さんこんにちはー、お願いしまーす」
「杏樹ちゃんいらっしゃい、あらぁ、それが彼氏にもらった指輪ねー、ちょっと見せて―」
トレーを持つ杏樹の手の指輪に気付いた朝子が言った。
「え? 何でそれを?」
杏樹が驚く。
「女性陣がみんな言ってたわ。すっごく高そうな素敵な指輪だって。それにしても本当に綺麗だことー」
朝子はうっとりと指輪を見つめる。
「でも漸く杏樹ちゃんにも彼氏が出来たのね、おめでとう」
「フフッ、ありがとうございます」
杏樹が照れながら言うと、先に来て食事を始めていた北門課長が杏樹に言った。
「杏樹、大事にしてもらうんだぞー。女は大事にしてくれる男とじゃないと結婚しちゃだめだからなー」
「それは課長みたいな愛妻家と結婚しろっていう事ですか?」
課長の隣で食事をしていた庶務の沙織が大声で聞いた。
「まあそういう事だよ沙織! 女の子ってーのはな、大事にされてなんぼだ」
そこで今度は朝子が言った。
「うちのとーちゃんも優しいよぉ。買い物に行くと一切私には荷物を持たせないんだからね」
「朝子さん、そりゃ当たりだ! いい旦那だねー、結婚して正解だ。重い物を女に平気で持たせる男なんてクズだよクズ!」
その時沙織がまた言った。
「みんな優しいパートナーでいいなー、私の彼氏はクズかもー」
がっかりしている沙織に向かって課長が聞いた。
「沙織の彼氏は優しいじゃないか。ほら、前に飲み会で遅くなった時に迎えに来てくれただろう?」
「でも荷物は持ってくれません」
「ハハッ、俺の言い方が極端だったな、すまんすまん。まあ総合的にって事だよ。他に優しい点があれば問題ないさ」
「それはそうですけどぉ…」
「なら沙織の彼氏は沙織が熱を出したらどうする?」
そう聞かれた沙織はその時の事を思い出しながら言った。
「えっとぉ、薬とかおかゆとかプリンを買って来てくれて私が治るまで看病してくれます」
「おっ、それなら大丈夫じゃないか。病気の時に優しい男は間違いないよ」
「そうですか? 課長が言うなら自信持っちゃう」
急に沙織が嬉しそうに言ったのでその場にいた同僚が一斉に笑った。
「うんうん、あとは沙織がいかに教育していくかだな。荷物持つように躾けるのなんて簡単だよ」
そこで杏樹が感心したように言った。
「なるほど……自分好みに相手を教育していくんですね」
「そういう事。女が男を躾ければいいんだ。自分好みにな」
「課長ーーー! すごく勉強になりましたーーー! 私頑張るっ!」
沙織が嬉しそうにガッツポーズをしたので更に笑い声が響いた。
そんな杏樹達の会話を食堂の隅にいた正輝が聞いていた。
生き生きと幸せそうに笑う杏樹を見て正輝は付き合っていた頃の杏樹を思い出す。
(俺は荷物を持つ以前に一緒に買い物にも行ってやらなかったな。杏樹が風邪で仕事を休んだ時も飲み会に参加していたし……チッ……俺は杏樹に何もしてやらなかったのか…)
その時正輝のスマホがブルブルと震えメッセージが届いた。メッセージは早乙女家具の令嬢・莉乃からだった。
【あの融資の件まだなの? 兄が早くしろってうるさいのよ。そろそろどうにかして!】
正輝はメッセージを見た後重いため息をつく。
そして返信しないまま無造作にスマホをポケットに突っ込んだ。
コメント
23件
正輝、今頃杏樹ちゃんの良さに気付いたの〰️😮💨 ダッサ〰️🤣
正輝未練タラタラ💦
杏樹ちゃんも、今更元彼に過去のこと思い出されても困るよねー。