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朝の光が白く滲んでいた。遥は、体の奥で波のように押し寄せる吐き気を抱えたまま、教室の隅の席に座っていた。
夜からほとんど眠れていない。喉の奥が焼けるように痛く、体温は上がったり下がったりを繰り返している。
それでも休むという選択肢はなかった。休めば「怠け」と言われることが、もう骨の奥まで染みついている。
「遥、顔色悪いな。ちゃんとやる気あるのか?」
担任の声が響く。
遥は立ち上がろうとして、視界がぐらりと傾いた。机の角が目の端をかすめ、白いチカチカした光が走る。
同時に背中に冷たい汗が流れ落ちた。
全身が、自分の意志に逆らって震えている。
頭では「倒れるな」と命じても、体はゆっくりと壊れていくようだった。
「……すみません、少し、気分が……」
声を出すと、喉の奥がひりつく。
その言葉は途中で遮られた。教師が眉をひそめ、冷たく言い放つ。
「体調管理もできないやつが言い訳するな。みんなの前で謝れ」
ざわめく教室。
遥は唇をかすかに噛み、俯いた。
吐き気が増していく。胃が、何度も内側から掴まれるように蠢く。
頭が熱いのに、手足は氷のように冷たい。
息がうまくできず、肺が空気を拒む。
それでも立っていなければならない。
そうしないと、また笑われるから。
「……すみま、せん……」
言葉は途切れ、次の瞬間、喉の奥から込み上げてきたものを止められなかった。
机の上に手をついた瞬間、胃の中のすべてが逆流した。
酸っぱい匂いが教室を満たし、液体が床に飛び散る。
周囲の空気が、一瞬止まった。
そして、すぐに破裂するような笑い声。
「うわ、最悪!」
「ほんとに吐いた!マジで気持ち悪い!」
「近寄るなって!臭っ!」
椅子が引かれる音、誰かが鼻をつまむ仕草。
笑いと嫌悪とが混ざり合って、空間が歪んだように感じる。
誰もが彼を“汚れ”として見る。
まるで彼が病気そのもののように、存在を拒絶する目がいくつも突き刺さった。
教師の声が冷たく響く。
「……だから言ったろ、周りに迷惑をかけるって。自己管理もできないやつが、何を学ぶっていうんだ?」
その言葉は、罰としてではなく「正義」として投げられた。
クラス全体がそれに同調する。
誰かが鼻で笑い、誰かが携帯を向ける。
「掃除係呼べよ」
「いや、自分でやらせればいいじゃん」
そんな声が交錯する中、遥は膝をついた。
視界が滲んで、涙と汗と吐瀉物の区別がつかない。
床を見つめながら、喉の奥で何かが焼けるように痛い。
――自分が悪いんだ。
――ちゃんと我慢できなかった。
そう思った瞬間、胸の奥に広がったのは、恥ではなく“罪悪感”だった。
生きているだけで、迷惑をかけているような錯覚。
呼吸するたびに、周囲の冷たい空気が皮膚の内側に刺さる。
「吐いたなら拭けよ。自分のだろ」
教師が言う。
遥は震える手でポケットのハンカチを取り出し、床に触れる。
生暖かい液体が指先にまとわりつき、吐き気が再び込み上げた。
笑い声が上がる。
「ほんとに拭いてる」
「えらいね、偉い偉い」
まるで動物に芸を仕込むような口調。
それが一番きつかった。
怒鳴られるより、無関心より、あざけりの“軽さ”が心を壊していく。
「もう、やめてください……」
掠れた声で言ったが、誰も聞いていない。
むしろその言葉で、また笑いが起こった。
「やめてください、だって。やめねーよ、汚したのお前だろ」
「泣くなよ、キモい」
「お前がいると飯食う気なくすんだよ」
遥はハンカチを握りしめたまま、頭を下げる。
胃が痛み、体の震えが止まらない。
目の前の床の一点を見つめながら、ただ小さくつぶやく。
「……ごめんなさい」
誰のための言葉なのか、自分でもわからない。
ただ、その言葉しか、もう出てこなかった。
教室の空気はそのまま、何事もなかったかのように流れていく。
だが遥の中では、音が全部消えていた。
笑いも声も、遠くで響いているだけだった。
自分の鼓動だけが、痛みとともに、体の奥で鈍く響いていた。