コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
床に手をついたまま、遥は動けなかった。体の奥で、まだ吐き気の残りが波のように揺れている。周囲の笑い声は薄れていくのに、耳の奥にはずっと反響していた。
――また、汚した。
――また、みんなの迷惑になった。
その思考だけが、胸の奥に何度もぶつかってくる。
「……遥、行こう」
その声に、遥は顔を上げた。
日下部がいた。机の間を抜けてこちらに来て、迷いもせず肩を掴んだ。
冷たい掌だったが、その温度がなぜか異様に熱く感じられた。
彼の表情は無言のまま、ただ“それ以上の言葉”を飲み込んでいるように見えた。
「いい……自分で……」
そう言った瞬間、視界が揺らぐ。
立ち上がろうとした脚が、まるで誰かに縛られているように動かない。
手の中のハンカチが滑り落ち、濡れた床の上に沈んだ。
日下部が支えるように腕を回した。
その瞬間、全身の力が抜ける。
「無理だろ。行くぞ」
小さく、低い声。
それだけだった。
教師は眉をひそめたが、何も言わなかった。
むしろ「勝手にしろ」とでも言いたげな顔。
周囲の生徒たちは冷めた笑いを残したまま、興味を失っていく。
まるで壊れた玩具が片づけられるように、二人は教室を出た。
廊下に出ると、空気が少しだけ違っていた。
外の光が白く射し込み、埃の粒が静かに舞っている。
遥はその光を見て、少しだけ吐き気が戻った。
どんなに明るくても、身体の中の暗闇は消えない。
「……なんで助けるの」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
日下部は答えず、ただ前を向いたまま歩いた。
その沈黙が、責めているようにも、守っているようにも聞こえた。
保健室のドアが開く。
白い匂い。
ベッドの上に座らされると、体中の力が抜けた。
手足が勝手に震え、視界がぐにゃりと歪む。
吐き気の波がまた来て、喉の奥が熱くなる。
「ここにいればいい。誰も来ないから」
日下部の声は低く静かだった。
遥は返事をしない。
喉の奥で、言葉が全部止まってしまっていた。
“ありがとう”も“やめて”も、“信じたい”も、“信じられない”も。
全部、声になる前に砕けた。
「……俺が、どんなか知らないくせに」
震える息でそう呟く。
日下部は短く目を閉じた。
その顔に、一瞬だけ痛みが浮かんだように見えた。
「知ってるよ。全部は、知らないけど」
静かな声。
その“全部は”の部分に、遥は息を詰めた。
自分の中の“地獄”が、言葉に触れそうになってまた引っ込む。
それを見透かしたように、日下部は立ち上がった。
「先生には言わない。だから、寝とけ」
そう言い残し、ドアを静かに閉める。
白い天井を見上げながら、遥は浅く息をした。
胸の奥が痛い。
吐き気と一緒に、何かが喉の奥で詰まっている。
涙が一筋だけ頬を伝ったが、それが何の涙なのか、自分でもわからなかった。
ただ、静かに、体の奥で何かがまだ震えていた。