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第77話:安心という公式の言葉
朝の通学路。
街路樹の下を、子どもたちの列が静かに歩いていく。
歩道脇の案内板には、淡緑の文字で今日の指標が表示されていた。
安心度:基準内
体温供給:良好
言語安定:正常
それ以外の言葉は、ほとんど見当たらない。
ゆづ(10)は水色の上着に灰のリュック。
肩紐には学校指定の小さな大和旗が取り付けられている。
布地は薄く、淡緑の帯が一本入っているだけの簡素なものだ。
前を歩く大人たちも、同じ旗を身につけている。
会社員風の男性は灰のコートに細身のズボン。
女性はモカ色のカーディガンに落ち着いた表情。
誰もが似た色合い、似た歩幅で進んでいた。
交差点に立つ街守隊員は、淡緑の識別章がついた制服姿。
表情は穏やかで、視線だけが絶えず人の流れを追っている。
信号が変わる。
スピーカーから流れるのは、短い定型文。
本日も安心な移動をありがとうございます。
それ以上の言葉はない。
学校に着くと、校舎入口の壁一面に文字が並んでいる。
安心は測れる
安心は守られる
安心は共有される
子どもたちは立ち止まり、自然にそれを目でなぞる。
声に出す必要はない。
もう何度も見て、何度も聞いてきた。
教室。
机は等間隔に並び、天井には温感センサー。
黒板は使われていない。
前方のスクリーンに、淡緑の背景が映る。
今日の言語指導
使用語:安心
補助語:基準・安定・正常
それ以外は、注意して使いましょう。
先生は灰のジャケットに水色のインナー。
髪は後ろでまとめ、装飾はない。
ゆっくりと説明が始まる。
昔はね、気持ちを表す言葉がたくさんありました。
でも、意味が揺れる言葉は不安を生みます。
だから今は、公式な場では安心を使います。
子どもが手を挙げる。
うれしい、は?
先生は少し考えてから答える。
安心が高い状態、で表せます。
かなしい、は?
安心が下がった状態、です。
教室の空気は静かだ。
誰も不思議そうにはしない。
ゆづはノートを見つめる。
そこに書かれているのは、ひらがなで短い文。
きょうは あんしん です
それだけで、丸がつく。
昼休み。
校庭では子どもたちが遊んでいる。
走る子、座る子、旗を揺らす子。
笑い声はあるが、言葉は少ない。
あんしん?
うん、あんしん。
それで会話が成立する。
校庭の端には、安心センターの分室が見える。
淡緑の外壁、灰のライン。
中では心理支援士がモニターを見つめている。
体温、表情、動き。
すべてが安心として処理される。
帰り道。
ゆづはふと、母の手を握る。
母は淡緑のコートにモカの靴。
顔色は穏やかで、歩調も一定。
ねえ。
なに?
どうして、みんな同じ言葉なの?
母は少しだけ空を見上げる。
同じ言葉なら、ずれないから。
ずれないと、不安にならないでしょ。
ゆづは考える。
よくわからないけれど、納得したようにうなずく。
街のビジョンが切り替わる。
公式発表
本日の安心は良好です
それを見た人々は、足を止めない。
ただ、その中を通り過ぎていく。
この国では、
公式に決められている言葉は、
すべて安心の話になった。
それ以外の言葉は、
思い出す必要のないものとして、
静かに生活の外へ押し出されていった。
ゆづは胸の奥で、
なにか名前のない感覚を抱きながら、
今日も安心な一日を終える。