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第78話:算盤の音がする日
朝の登校路。
まひろは水色のパーカーに黄緑のショートパンツ。
ランドセルを揺らしながら、大和国第三区学舎へ向かって歩いていた。
校門には安心旗が掲げられ、墨染めの布の中央で緑丸がゆっくり明滅している。
緑丸の光が反射するたび、生徒たちの端末が小さく「安心更新」を受信した。
■ 教室に流れる音
教室に入ると、あちこちでカチ……カチ……と小さな音が鳴っていた。
生徒たちが算盤の玉を弾く音だ。
まひろの席の後ろでは、黄土色のベストを着た男子が
夢中になって算盤を弾いている。
「キュウ に イチ を たして……ジュウ。
ほら、安心ケイサン完了っと」
教卓の横にはポスターが貼られていた。
【電子計算より算盤を:迷いミナシ、安心イチへ】
【大和数字を正しく使おう:イチ・ニ・サン・シ】
■ 先生が来る
先生は灰色のジャケットにモカ色のスラックス。
胸元には「教育安心監査章」の緑バッジ。
「はい、みなさん。今日も安心数学の授業を始めます」
黒板にチョークで、大きく書く。
イチ
ニ
サン
シ
その下には漢字の「一 二 三 四」。
「雨国崩落以降、英数字は統制外語とされました。
今日も“大和数字”をきれいに使いましょうね」
生徒たちは声を揃える。
「安心のためです」
■ 授業が始まる
先生は算盤を持ち上げ、玉を弾いて見せる。
「算盤は安心を生む道具です。
手を動かすと“迷い”が減り、心理波が安定します」
天井の緑ランプがほのかに光る。
【問題1】
サン に ニ を たす。
まひろは算盤に指を置く。
カチ……カチ。
「……ゴ、です」
「はい、正解。安心イチです」
先生の言葉に、緑ランプがまた明るく光った。
■ 違和感
【問題2】
シ から イチ を ひく。
まひろはまた指を止めた。
「……ひくって……前は、マ……いや、なんでも……」
言いかけて、口をつぐむ。
後ろの席の女子が笑って言う。
「“マ”? 何それ。そんな言葉ないよ」
緑ランプが一瞬だけ小さくちらついた。
■ 先生の声
先生は微笑んだまま黒板に書き足す。
ひく=安心語
マイナス=旧式・危険語(雨国崩落前の表現)
「昔は“マイナス”なんて言ったそうですが、
あれは雨国式の“不安語”。
今は使いません。
大和国では“ひく”が安心語なんです」
■ 放課後の静けさ
授業が終わり、生徒たちは次々に教室を出ていく。
算盤だけが机に残され、カチ……と小さく玉が揺れた。
まひろはランドセルの肩紐を握りしめ、また黒板を見る。
イチ
ニ
サン
シ
「……“マイナス”……たしかに聞いた気がしてたのに……」
窓の外には安心旗。
墨染めの布の上で、緑丸がまたゆっくり明滅する。
■ 結末:地下の光
暗い部屋。
緑のフーディを羽織ったゼイドが、算盤授業の映像をモニターで眺めていた。
生徒たちが算盤を弾く音、
大和数字を唱える声、
“マイナス”という記憶が静かに消されていく様子。
ゼイドは低く言った。
「数は世界の形だ。
世界の形を変えるには、まず数を塗り替える。
……安心数学とは、記憶の削り方だ」
モニターに映る教室では、
緑丸の光が天井に反射し、算盤の音だけが続いていた。