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第9話 変異なしの稽古
朝の鏡は、今日も何も返してこなかった。
人の体に、ウーパールーパーの頭。
丸くひらいた外鰓は、寝起きの湿り気を少しだけ抱えたまま静かに揺れている。大きな目は相変わらず眠そうに見えやすく、口元は何も考えていなくてもやわらかい形のままだ。灰色寄りの上着を羽織る前の薄い部屋着のまま立っていても、そこにきらめきはない。喉の奥も静かだ。前みたいな熱は、起きてすぐには来ない。来ないまま、もう何日も過ぎていた。
イオルは鏡の前で一度だけ口を開いた。
「おはようございます」
ただの声だった。
近くも遠くもない。
誰も止めない声。
録画を押し、止め、見返し、また消す。
それを続ける朝が増えた。
きらめきが戻る気配はなかった。
それでも、やめる理由もなかった。
売場へ向かう電車の窓に映る顔は、完全に元へ戻っていた。平凡な種の、平凡な輪郭。駅前の大型画面に自分の過去の切り抜きが流れていても、通りすがりの誰かは気づかない。少し前まで痛かったその事実は、最近ようやく、痛いまま触れるものになってきていた。
二階の通路で、フミが値札の角度を直していた。
メダカ頭の小さくきりっとした輪郭。髪は後ろでまとめられ、制服の襟元は今日もきっちりしている。目の焦点は細く速く、棚の乱れも人の顔色も同じ速さで拾う。
「顔、昨日よりまし」
「昨日より」
「沈みすぎてない」
「それ、褒めてますか」
「少し」
フミはハンガーを揃えたまま続けた。
「鳥の人から、何か来てたでしょ」
「なんでわかるんですか」
「今朝の顔が、落ちた顔じゃなくて、考えてる顔だから」
「……来てました」
「何て」
「開かないで、って」
「映像?」
「はい」
「なら開かなくていい」
フミはそこで初めてイオルを見た。
「戻るの待ってる顔してると、ずっと薄いままだと思う」
「どうすれば」
「待たないことじゃない」
言い方は雑なのに、そのまま残った。
待たない。
戻るのを。
きらめきが。
喉の熱が。
人を止める何かが。
それを待たないで、何をするのかはまだわからない。
昼休み、端末に短い通知が来た。
鳥頭の女だった。
文面はやはり短い。
明日、稽古場へ来られますか。
変異なしでやる時間を作ります。
変異なし。
その言葉を見た瞬間、胸の奥が少しだけ硬くなった。
喉の熱がなくても。
きらめきが隠れていても。
そのままでやる時間。
嫌だった。
でも、目をそらせなかった。
翌日の夕方、仕事を終えたあとで向かった稽古場は、テレビの街の中ではなかった。
商業区の端を抜け、少し古い建物の二階。
看板も小さく、受付も広くない。ガラスの扉の向こうに見える廊下は、芸能施設みたいに完璧には均されていなかった。湿り気も温度も、誰かにとってちょうどよく、誰かにとって少しだけ合わない。その少しの合わなさが、かえって街の外に近かった。
案内された部屋は広くない。
床。
壁。
鏡。
長机。
端に積まれた脚本。
それだけ。
照明も強すぎない。
誰かをきらめかせるための部屋ではなく、ただ立って、歩いて、言葉を出すための部屋だった。
鳥頭の女は、すでにそこにいた。
細い輪郭。鋭い目元。濃い茶色の細い服。首元にはやわらかな布が一枚だけ巻かれている。立っているだけで姿勢に無駄がない。
その隣には、もうひとりいた。
年上のダックスフンド頭の男。足は短いが、重心が低く、床に置いた小さな鞄の横へ立つ姿が妙に安定している。くたびれた灰色寄りの上着に、首元の開いたモカ色の服。顔立ちは整っているというより、長く使われた表情の癖が染みついている感じだった。
鳥頭の女が言う。
「紹介します」
「はい」
「コウジさん。舞台寄りの人」
「どうも」
ダックスフンド頭の男は片手を上げた。
声は低く、乾いていない。強いのに、押しつける感じがない。
「テレビの人って聞いてたけど」
「少しだけです」
「少しだけの顔じゃないな」
「……」
「落ちたあとの顔だ」
イオルは返事をしなかった。
鳥頭の女が、壁際の脚本を一冊取る。
「今日は戻さないです」
「はい」
「呼ばない」
「……」
「きらめきも、喉も、前へ出る感じも」
「はい」
「全部いったんなし」
その言い方は乱暴だった。
でも、いまはそのほうが助かる気もした。
戻らないものを待ちながら台詞を言うのは、もう疲れていた。
最初にやらされたのは、歩くだけだった。
部屋の端から端まで。
止まる。
振り返る。
また歩く。
言葉はなし。
見せる相手もなし。
ただ歩く。
「速い」
コウジが言う。
「え」
「前へ出ない代わりに、終わらせようとしてる」
「……」
「見られないと、すぐ終わらせたくなるんだろ」
図星だった。
喉が熱くない日は、何もかも早く終わらせたくなる。説明も会話も、録画も稽古も。薄い自分を長く見ていたくないからだ。
「遅く」
鳥頭の女が言う。
イオルはもう一度歩く。
遅く。
すると今度は、自分の足音が耳につく。
外鰓の先がわずかに揺れる。
肩が少し上がる。
「見てる」
鳥頭の女が言う。
「まだ自分を見てる」
「はい」
「鏡がなくてもやるんだね」
その言い方に、少しだけ腹が立った。
自分でも嫌だと思っていることを、真正面から言われたからだ。
でも、その腹立ちのせいで、三本目の往復で少しだけ余計な考えが切れた。
歩く。
止まる。
振り返る。
ただ、それだけ。
「今の」
コウジが言う。
「ちょっとだけ人になった」
「人」
「前の二本は、評価待ちの生き物だった」
「ひどいですね」
「ひどいよ。でも本当だ」
その日、台詞はほとんどやらなかった。
座る。
立つ。
振り向く。
物を拾う。
机の上の紙コップを持ち上げる。
戻す。
誰も見ていない場所で、それでも体が何をしているかを整える。
終わった時、喉の奥は相変わらず静かだった。
なのに、疲れは売場の一日より重かった。
稽古は週に二回になった。
仕事を終えてから通う。
売場の匂いを制服ごと脱ぎ、古い二階の部屋へ向かう。
コウジはいつも少し早く来ていた。
低い重心。くたびれた上着。乾いていない声。見た目は地味なのに、床へ立つと場が少し締まる。
鳥頭の女は相変わらず、やさしいことをほとんど言わなかった。
「立つ前に終わってる」
「相手がいない」
「感情を見せようとしすぎ」
「いまのは喋ってるだけ」
そういう言葉ばかりだった。
でも、その部屋では、変異の話はほとんど出なかった。
喉がどうとか、きらめきがどうとか、一度も言われない。
ただ、立つ。
相手を見る。
言葉の前にいる。
その繰り返しだった。
ある日、コウジが休憩中に床へ座ったまま言った。
「出ないもの、待ってる?」
「まだ少し」
「無駄とは言わないけど、稽古の邪魔にはなる」
「わかってます」
「わかってる顔じゃないな」
イオルは壁にもたれて、水を飲んだ。
部屋の空気は均されすぎていない。少しだけ乾きが強い日もある。そういう日は外鰓の先が少し敏感になる。でも、その不完全さが最近は落ち着いた。
コウジは続ける。
「変異で通る人はいる」
「はい」
「でも、変異が出ない日にも、相手へ何か届く人だけが残る」
「……」
「その何かを、こっちは稽古で作るしかない」
「作れるんですか」
「作るというより、削るかな」
削る。
その言葉が残った。
確かに、この稽古場でやっていることは、何かを足すことではなかった。
派手にすることでもない。
きらめきを呼び戻すことでもない。
自分が早く終わらせようとする癖。
見られる自分を気にしすぎる癖。
台詞の前に感情を置いてしまう癖。
そういうものを、少しずつ削っていた。
部屋の中で、イオルは少しずつ変わった。
喉は静かなままだ。
それでも、相手役の台詞が来たあと、一拍だけ待てるようになった。
紙コップを置く手が、前より少しだけ人の手に見えるようになった。
「遅かったね」
と台詞を言う時、自分の顔の心配より、遅れて帰ってきた誰かの靴音を先に想像できる日が増えた。
きらめきは戻らない。
でも、演技は少しずつ前へ進む。
その事実だけが、以前より重みを持って残るようになった。
冬に近いある夕方、鳥頭の女が一本の紙を差し出した。
「小さい役です」
「役」
「無名」
「……」
「二行だけ」
「二行」
「台詞は少ない」
「はい」
「でも、もらう?」
「もらう、というか」
「受けるかどうか」
イオルは紙を受け取る。
短い説明。
街の片隅で主人公とすれ違う店員役。
名前なし。
二行。
それだけ。
少し前の自分なら、がっかりしたかもしれない。
今は、紙の薄さがそのままありがたかった。
「受けます」
「即答だね」
「はい」
「なんで」
「二行でも、役なら」
「そう」
鳥頭の女はそれ以上何も言わなかった。
撮影はテレビの街の中の小さなセットだった。
以前のような大きな生活特集ではない。廊下も狭い。待機室も簡素だ。名前のある出演者は別の部屋に入り、名前のない役だけが細い通路沿いの椅子に並んでいた。
そこに座る自分は、たしかに無名だった。
衣装も地味だ。
薄い茶色のエプロン。
中は灰色寄りのシャツ。
店員として紛れるための、何も足さない服。
鏡に映る顔も、完全に平凡だった。
喉は静かだ。
熱もない。
きらめきもない。
でも、不思議と前みたいな絶望はなかった。
今回は、ないまま行くと決めてきたからだ。
現場にはコウジはいない。
鳥頭の女だけが少し離れて見ている。
相手役の主人公は、細い狐頭の若い男だった。頬の線がシャープで、立ち姿に少しだけ翳りがある。台詞のない時まで、体の中に場面を持っている感じがした。
イオルの役は、主人公が品物を落とした時に、一度だけ声をかける店員だ。
二行。
「落ちましたよ」
「こちらに置いておきますね」
それだけ。
カメラ位置の確認。
立ち位置。
小道具。
周囲の動き。
すべてが整っていく。
イオルは床の印に立ち、深く息を吸った。
喉は静かだ。
それでいい。
相手が歩く。
品物が落ちる。
音。
振り向く。
そこまでを見て、イオルの体が自然に動く。
前へ一歩。
拾う。
「落ちましたよ」
声は普通だった。
人を止める熱もない。
きらめきもない。
でも、その二行は、相手へちゃんと届いた。
狐頭の若い男の肩が、ごく自然に反応する。
振り返る。
目が合う。
そこにだけ、小さな生活が生まれる。
「こちらに置いておきますね」
言って、棚の端へ置く。
それだけ。
カット。
短い。
あまりにも短い。
終わった瞬間、イオルは自分の胸の奥に、以前と違う静けさが落ちるのを感じた。
誰も大きく褒めない。
派手な反応もない。
スタッフが位置を直し、次の段取りへ移る。
名前のある役者たちは別の流れへ乗る。
自分の二行は、全体の中へ静かに沈んでいく。
それなのに。
届いた。
そう思えた。
鳥頭の女が近づく。
「今の」
「はい」
「変異、戻ってないですね」
「はい」
「でも、届いた」
「……」
「わかる?」
「少し」
彼女は小さくうなずく。
「それでいい」
「いいんですか」
「きらめかなくても、役の中で人へ渡せた」
「……」
「二行で十分」
その一言で、イオルはようやく息を吐いた。
きらめきがない。
喉も静か。
それでも、演技は届く。
その事実は、以前自分が欲しがっていたどの言葉より、静かで強かった。
撮影帰り、テレビの街の渡り廊下を歩いた。
高い天井。
均された空気。
種の違いをいったん後ろへ下げる建物。
その街は相変わらず整っている。
でも、前みたいに自分を持ち上げてくれる場所には見えなかった。
持ち上げるのではなく、試す場所だ。
出るか。
残るか。
届くか。
それだけを見る場所。
その冷たさは変わらない。
ただ、今日の自分は、その冷たさの前で少しだけ立てていた。
売場へ戻る日々も続く。
二階。
三階。
納品箱。
値札。
試着室。
客の質問。
礼。
通り過ぎる足。
元の生活圏。
でも、以前のように「一般人へ戻った」とだけは思わなくなっていた。
売場の通路で小物を手渡す時、二行の役でやったみたいに、ちゃんと相手を見る。
「こちらです」
普通の声で言う。
普通の声のまま、前より少しだけ相手へ届く日がある。
止まるほどではない。
きらめくほどでもない。
でも、届く。
ミナセがある日の閉店後、通路の端で言った。
「最近、なんか違うね」
「何がですか」
「前みたいな、変な反射はない」
「はい」
「でも、言葉が前よりちゃんと来る」
「……」
「売場でも」
ウーパールーパー頭の丸い輪郭が、少しやわらかく笑う。
「薄いの、薄いなりに抜けた感じ」
「変な言い方ですね」
「褒めてる」
フミはその横で箱を閉じながら言う。
「立ち方が、やっと自分のものになってきた」
「前から自分のです」
「前は評価待ちだった」
「それ、コウジさんも」
「似たようなこと言う人、多いんだね」
フミはそれだけ言って、箱を台車へ載せた。
夜、部屋の机の前で、イオルはまた前面カメラを起動した。
画面の中の自分は、やはり冴えない。
喉は静かだ。
熱もない。
それでも、二行の役を思い出して口を開く。
「落ちましたよ」
「こちらに置いておきますね」
普通の声。
普通の顔。
でも、前より嫌ではない。
見返す。
きらめきはない。
しかし、言葉の先にちゃんと誰かがいる感じが、少しだけ残っている。
それで十分だと思える夜が、やっと来た。
寝台へ横になる。
天井を見る。
部屋は狭い。
静かだ。
一般人の部屋だ。
でも、その静けさの中で、今日の二行がまだ薄く残っていた。
無名の小さな役。
変異は戻らない。
きらめきも戻らない。
それでも、演技は届いた。
その事実だけで、喉の奥ではなく、胸の少し深い場所が静かにあたたかかった。