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ナタリーは、盗んだ馬で、黒髪の貴公子と共に、追ってから逃げていた──はず、だった。
「やられた……」
森の中、馬の手綱を握り、一人ごちている。
男は逃げた。甘い口づけと、馬を残して。
「あっ、まずい、ハニー」
泣きそうな声を出し、もよおした。と、言って男は馬を止めた。
「あー、ごめん、すぐに戻るから。それに、街は、ほら、もう見えている。なんて所か知らないけれど、俺達二人なら、上手くやれるさ」
そして、思い出したかのように、ナタリーへ口づけると、茂みの奥へ分け行ったきり、男は戻って来なかった。
「はいはい、カイル、馬は、餞別として、頂いておきますよ。街までの道案内も、どうも」
もっとも、あの男の名が、カイル、かどうも怪しいけれど。
自分の失態と、騙された事の腹立たしさを押さえつつ、先に見える、ごくありふれた小さな町へナタリーは、馬を引いて向かった。
──時は19世紀前半。この欧州《ヨーロッパ》では、イタリア半島を筆頭に、名も知れぬ小国が、ひしめき合っていた。
大国は、隙あらば、それらの国を取り組込むべく、諜報戦を繰り広げている。
そして、ナタリーも──、王公貴族を狙った活動員だった。
相手側の困り事処理という名目で入り込み、王の愛人となって内側から国を崩していくという、周到ぶりから、傾国のナタリーという通り名を持っていた。
昼間は、社交界の情報収集の為に、高級婦人服の仕立て屋マダムとして店を切り盛りしているが、いざ、依頼が入ると、裏の仕事へ専念する。
そうして、このところの、お得意様は、先をピント跳ね上げた口髭──、カイゼル髭の男だった。
そのカイゼル髭の指示により、ナタリーは、失踪した小国の皇太子妃の身代わりとして潜入し、そして、逃げた男、カイルと、出会ったのだった。
彼も、カイゼル髭に雇われて、替え玉皇太子役を演じていた。
どうやら、二人とも、カイゼル髭が属する国の邪魔になったようで、その依頼自体、二人を始末する為に仕組まれたものだった。
当然、ナタリーとカイルは、逃げた。愛の逃避行だと、男《あいつ》は、言い張っていたが……。
で、この始末!
はあー、と、ナタリーはもろもろの疲れから、大きなため息をついた。
と、地面に、車輪の跡を見る。
「はっ、やっぱり。あの男、どこかの国の諜報員ね。私と同じ、フリーだなんて、良く言うわ」
地面に刻み込まれたものは、迎えの車が来ていた証拠。やつは、今頃、悠々と、車の後部座席で足を組み、葉巻でも、くゆらせていることだろう。
「あー、結局、あの男も、後ろに大国がいたんじゃないの。道理で、手際が良かったはずよ」
さて、ぐずぐず言っている場合ではない。日暮までに、町に入らなければ。で、この馬を──、どうする。
売ってしまえればよいのだが、それで、足がつくのも考えもの。
カイゼル髭といい、恐らく、敵対する、大国の一員である男まで現れ、ナタリーは命を狙われているのだから。
ここは、いつもの手を使うかと、やや、げんなりしているナタリーへ、クラクションの音が降りかかってきた。
「ああ、マダム、いえ、ナタリー、無事でよかった!」
将校クラスが利用する高級車が止まり、中から女が降りて来て、ナタリーへ親しげに声をかけてくれる。
憲兵の軍服に身を包む女は、ナタリーには、見覚えがあった。
「ちょっと、ロザリー!あなた、なの?!」
「はい、すみません。騙す様なことをして、お陰で、マルコビッチを捕まえる事ができました」
「は?誰?マルコビッチって……もしかして!」
「ええ、カイゼル髭の男。あれは、二重スパイだったのです」
(そっちか!)
うっかり、逃げた男、カイルの事を思い浮かべた自分に、ナタリーは、げんなりするが、それより、なにより、前にいる、ロザリーときたら、まるで、別人。
「ロザリー、あなた、ふわふわのウェーブの髪は?!」
毎朝、カーラーが上手く巻けなかった、髪型が決まらないと、泣きべそをかいていたあのお針子は、ふわふわどころか、キリッと髪を結いまとめ、後れ毛ひとつ垂らしていない。
「あー、すみません。髪型は、規則なもので」
いや、そうゆう話ではなく!
「安心してください。今より、我々の保護下に入ります。もう、大丈夫ですよ、マダム」
言って、ロザリーは、乗り付けてきた車に目をやった。
乗れということらしい。
「私には拒否権は、無いということね」
「まあ、拒否、だなんて!淋しい事を!私達は、マダムをお守りするために、来たのですよ?」
憲兵の女から、お針子、ロザリーの口調に戻ってくれるが、ナタリーには、守るという言葉は、信用できないものだった。
しかし、車には、少なくとも二人の男、ロザリーは丸腰に見せかけ、銃を仕込んでいるはず。
何より、ナタリーの母国、フランスの軍服に迫られては分が悪い。
ここで逆らえば、居場所は、完全に失くなる。
それどころか。隠れ場所、今まで作り上げてきた人脈もろとも、消されるだろう──。
(いったい、どこまでの国が、動いているの!)
カイゼル髭のせいで、複数から、狙われる羽目になってしまったナタリーは、怒り心頭だった。
自分は、あくまで中立。依頼された事をこなすだけ。勿論、秘密は、厳守し、事が終われば、互いに、干渉しない。追加で新規の依頼が入れば、当然、受ける。但し、顔見知りとしてではなく、あくまでも、新規の相手として、振る舞って来た。
依頼主、おそらく、各国の手先だろう者達に、そこまで、気を配っていたのに。
まったく、どいつもこいつも、後ろ足で、砂をかけるような事をしやがって!それも、まさか、ロザリーまでが。
あがいても、無駄と思い、ナタリーは、言った。
「まあまあ、ほんとね、良く考えれば、こんなところで、一人きりなんて!来てくれて、助かったわ!」
これでもかと、極上の笑みを浮かべて、ナタリーは、車の中に待機する男達を見る。
たちまち、照れ隠しなのか、襟を直す振りをしたり、軍帽を被り直したり、傾国の華の蜜は、効き目を発したようだ。
しかし──。
コホンと。咳払いが、聞こえる。
ああ、女には、効かないか。と、ナタリーは、心の中で苦笑い、
「わかったわ」
と、ロザリーに従ったのだった。