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今日は、柚乃の集中講義の最終日だ。
母も柚乃もすでに出かけた後のリビングで、私はぼんやりと朝のテレビ番組を眺めていた。
昨夜柚乃の話を聞くまでの私は、戸崎に会える可能性が例え数パーセント以下だとしても、この朝も姉と一緒に出かけるつもりでいた。
けれど、今はもう、彼に会えるかもしれないという、わずかな期待に膨らんでいた気持ちはしぼんでしまっている。本当はどうなのか分からないのに、やっぱりあの人も柚乃に惹かれているのかもしれないと、勝手な想像が止まらない。
テレビ画面の時刻表示を見て、自分もそろそろ出かける時間であることに気づく。準備をしなければと、のろのろと立ち上がった。
身支度を整え、家中の戸締りを確認し、外に出た。
「おはよう、詩乃。これから学校か?」
門を出たところで、碧斗に声をかけられた。少し先の道端に立ち、私に手を振っている。その背にはリュックがあった。彼もこれから大学に行くようだ。
私は彼の元へ向かう。
「おはよう。碧斗もこれから学校?」
「あぁ。柚乃は?もう出かけたのか?」
やっぱりまず気になるのは柚乃のことなのねと、心の中で碧斗のことを微笑ましく思いながら答える。
「今日まで集中講義なんだって。毎日一限目からの授業らしい」
「そういや、そんなこと言ってたな。詩乃はバスだよな?途中まで一緒に行こうぜ」
碧斗に促されて、私は彼の隣に並んだ。歩きながら、彼の横顔をちらりと見上げ、私が見たこと、聞いたこと、感じたことは、彼には黙っておこうと決める。わざわざ話して、碧斗の気持ちを乱す必要はない。第一、仮に戸崎が柚乃に気持ちを向け始めていたとしても、柚乃の方はどうか、まだ分からないのだ。
間もなく分かれ道に差し掛かろうという時、それまで黙々と歩いていた碧斗が口を開く。
「今年も花火大会、行くだろ?」
私たちの地元では、お盆の期間中に花火大会が催されるのだが、碧斗が言っているのはそれのことだ。ここ数年は、柚乃と私、碧斗の三人で見に行くのが毎年恒例となっている。
「今年も三人で行けたらいいよね」
「あ、あぁ、そうだな」
幼なじみの顔に戸惑いが浮かんだ。
彼に訊かれたことに対して、私は普通に返しただけで、何もおかしなことは言っていないはずだ。
「どうかした?」
私は碧斗の顔をじっと見た。
彼は私の視線を避けるかのようにわずかに目を伏せる。
彼の様子が気にはなるが、もう行かなければならない。機会があればそのうち聞いてみればいい。
「じゃ、私はここで。またね」
「あ、あぁ……」
まだ何か言いたそうにも見える彼を不思議に思いながら、私はバス停へと向かった。
大学で今期最後の講義を全て受け終えて、サークルに顔を出した後は真っ直ぐ帰宅した。まだ誰も帰ってきていない家に入り、自分の部屋に向かう。ふと、隣の柚乃の部屋のドアが目に入り、急に落ち着かなくなる。
柚乃は、今夜、集中講義の打ち上げと称した飲み会に行く予定になっていた。今頃店に向かっているかもしれない。
その話を柚乃から聞いたのは、今朝だった。数か月前に映画館で会った、戸崎の友達である佐東が言い出しっぺらしい。彼も今回の集中講義を受けていて、気づいた時には自分も飲み会に参加することになっていたのだと、柚乃は苦笑しながら出かけて行った。
最も気になった戸崎の参加については聞きそびれてしまったが、佐東が言い出した飲み会ならば出席するような気がした。先日戸崎が柚乃を助けた一件もある。今夜のお酒が入る場で、二人の距離がますます近づいたりしませんようにと祈らずにいられない。
その時、玄関のドアが開いたことに気がついた。母が帰ってきたようだ。
私は手早く部屋着に着替えて玄関まで行き、母を出迎える。
「お帰りなさい」
「ただいま。あのね、お父さんから連絡があったんだけど、出張先でトラブルがあって、こっちに帰って来るのが明日になるんだって。今夜の晩御飯は詩乃と二人でしょ?だから、お惣菜、色々買って来ちゃった」
「そうなんだ。じゃあ、特に何か作らなくてもいいね」
私は母の手から買い物袋を受け取って、キッチンに向かった。
適当に時間を見計らって、二人してのんびりと食事を取った後は、順々に入浴を済ませる。
私はいったん部屋に戻ったが、冷たいお茶を飲みたくなってキッチンに向かった。食器棚にグラスを戻していた母に声をかける。
「お母さんもお茶飲んだの?」
「私はお酒をちょっとね」
母は悪戯っぽく笑ってから、真顔になった。
「柚乃は何時頃帰ってくるのかしらねぇ。お母さん、もう寝ちゃって大丈夫かな」
「もちろん大丈夫だよ。私も部屋に行くし。あぁ、でも、リビングの電気はつけておこうよ。柚乃が帰って来て、家の中が真っ暗だと可哀そうだもの」
「それもそうね。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
あくびをしながら母が廊下へ出て行った後、リビングの電気はつけたままで、私もまた自分の部屋に引っ込んだ。
時刻は十一時を過ぎていたが、まだ眠くない。起きていれば、戸崎と柚乃のことを考えてしまいそうだ。では、眠くなるまで何をして過ごしていようかと考えて、タブレットで映画を見ることにした。少なくともその間は、二人のことを忘れていられるだろう。
車のブレーキ音が聞こえたのは、タブレットの画面の立ち上がりを待っている時だった。
柚乃が帰ってきたのかもしれない。私は窓辺に寄って、外の様子をうかがうためにそっとカーテンを開けた。
塀の傍に、タクシーが停まっているのが見えた。開いたドアから柚乃が出て来た思ったら、なぜかそのすぐ後に続いて戸崎が降りて来た。
「なんで……」
一緒のタクシーで帰って来たからと言って、それが二人の関係の変化を表すものではないことは分かっている。それでも不安が広がるのを止められなかった。
タクシーが走り去った後の路上で、柚乃は戸崎に頭を下げていた。ここまで送ってきてもらった礼でも言っているのだろう。その後彼にくるりと背を向けて、門の方へと歩き出そうとした柚乃だったが、急にふらりとよろめいた。
戸崎が慌てた様子で柚乃の傍に駆け寄り、その体を支えた。
転ばなくて良かったと思うよりも先に、姉に嫉妬した。早く離れてほしいと思いながら二人の様子をやきもきしながら眺めていたが、戸崎はなかなか姉から離れようとしない。その様子はまるで、姉を抱き締めてでもいるかのように見えた。
私は心を乱しながらカーテンを閉めた。
その後すぐに姉は彼の腕から逃げたのか、それともしばらくは彼の腕の中にいたのか、分からない。二人の様子を見続けていられるほど、私の心は強くないのだ。
映画を見る気が失せた私は、電気を消してベッドに横になった。自分は明日から、姉の前でいつも通りに振る舞えるのだろうかと、暗い天井を見上げながらため息をついた。
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