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「今日は本当にありがとうございました」
二人は車を降りて、怜がトランクから奏の楽器ケースを取り出し手渡すと、彼女が深々と一礼した。
「…………」
怜は黙ったまま、躊躇っているような表情で奏を見下ろしている。
何かを言いかけ、形の良い唇を緩ませるが引き結び、再び唇を緩ませ……という仕草を数度繰り返している怜。
奏は、その仕草に小首を傾げながら彼の名を呼ぶ。
「葉山さん? どうかしましたか?」
「…………」
怜は見下ろしたまま、大きな黒い瞳を射抜いている。
張りつめた空気に耐えきれなくなりそうになった奏が、慌てながらも再び挨拶する。
「改めて、き……今日は本当に、い、色々とありがとうございました。帰り、気を付けて下さいね」
覚束ない様子で言葉を発し、怜の横を通り過ぎて自宅へと歩き出そうとした時だった。
怜が奏の華奢な手首を掴み、気付いた時には彼に引き寄せられ、強い腕の中に閉じ込められていた。
「!!」
突然、怜に抱きしめられ、奏の細い身体が硬直した。
彼女の手にしていた楽器ケースが指先から離れ、スローモーションのようにゴトリと鈍い音を立ててアスファルトの上に落ちる。
奏を抱きしめている怜の腕は尚も力が込められ、黒い艶髪に手を添えて厚みのある胸板に包み込んだ。
ドライブに出かける直前、大人の余裕を見せつけていた彼が、今は眉間に皺を刻ませ、焦燥感が募っているように見える。
適度な筋肉質の胸板からは、トクントクンと命を刻む音が聞こえ、奏の鼓膜を揺らし続けている。
「奏さん。俺…………」
奏の頭上に怜の息遣いを感じ、ただならぬ雰囲気に、どうしたらいいのか分からない。
彼女を抱きしめていた彼の腕が解かれ、小さな両肩にポンと手を添えながら、黒い瞳を真っ直ぐに捉えた。
「俺……奏さんの事が…………好きなんだ」
考えもしなかった怜からの告白に、奏の頭の中が真っ白になり、喉の奥から胸にかけて切ない痛みがジクリと疼く。
「初めて会った時に、君の瞳に魅力を感じていた。そして、あの結婚式からずっと…………君を……君だけを想ってた」
(葉山さんが……? 私の事……を……?)
嬉しさと羞恥心が彼女を襲い、まつ毛を伏せる。
「奏さんと出会ってから、もう一ヶ月半以上になるのか。いや、日野のハヤマ特約店で初めて見た時も含めたら、五ヶ月近くになるのか。それまで君を見てきて、心に何かを抱えているっていうのは薄々感じていた」
「……!!」
怜の言葉に、奏が弾かれたように彼の整った顔立ちを見上げた。
「…………気付いてたんですか?」
怜が奏へ顔を向けながら、ああ、と言って肯首した。
「君の、人を寄せ付けない冷たい雰囲気。前に、俺がその事で問い詰め、君を傷つけてしまったが、今は…………いつか君が心を開いて、俺に話してくれる時を待つから」
奏の視界が、じわじわと滲んできたかと思うと、それは歪な形へと変化していく。
彼女は、また彼にみっともない姿を見せるのが恥ずかしくなり、顔を伏せた。
「君が俺に心を許してくれる時を……俺は…………ずっと待つから」
彼の真摯な言葉に、奏の目尻に大きな雫が溜まっていくのを感じる。
(ヤバい…………泣きそう……)
それに堪えるように、彼女は俯きながら下唇をギュッと噛み締めると、涙は頬を伝い、楽器ケースの上にポツリと落ちた。
怜と恋人同士になったら、恐らく身体の繋がりも持つ事になり、かつての恋人、中野との事を嫌でも話さなければならない時が来るだろう。
その事実を、彼は受け止めてくれるのだろうか?
それとも、考えたくはないが、奏に対する見方が変わり、彼女の元から離れていってしまうだろうか?
怜との恋が終幕を迎えたら、今度こそ立ち上がれず、恋なんて二度とできないだろう。
様々な思いが、奏の胸の内を去来していく。
「お気持ちは、嬉しいです。ですが…………正直なところ、人を好きになるのが…………怖いんです」
「人を好きになるのが……怖い?」
怜は怪訝な表情を奏に向けるが、彼女は黙ったまま、辿々しく頷いた。
「私が答えを出すまで…………少しお時間を頂けませんか?」
やっとの思いで、こう答えるのが精一杯の奏。
「わかった。君が納得のいく答えを出すまで…………俺は待つから」
楽器ケースを持ち、奏は怜に泣き顔を見られないように伏し目がちに一礼すると、小走りで自宅へと向かった。
その背中が見えなくなるまで彼女を見送る怜。
「奏…………仮に……君が好きになった相手が俺でも…………怖いのか?」
彼は小さく吐息を零すと、車に乗り込み、アクセルを踏んだ。