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年の瀬も迫りつつある十二月の第一土曜日。
この日は母校、片品高校吹奏楽部の定期演奏会。
開演は十三時からだが、今年の定演は節目の定演というのもあり、多くのOBやOGが朝から会場入りし、本番直前のゲネプロの様子を見たりしている。
四十回目の定演に相応しく、セットリストもD.ショスタコーヴィッチの『祝典序曲』吹奏楽編曲版を始め、『吹奏楽の父』と言われたA.リードの楽曲『エル・カミーノ・レアル』、『アルメニアン・ダンス Part Ⅰ』、ブリティッシュブラスの楽曲で有名なP.スパークの『オリエント急行』吹奏楽編曲版、T-SQUAREの楽曲四曲など、奏から見れば『羨ましい』の一言に尽きる内容だった。
会場も八王子駅すぐ近くのホールで開催され、定演の後には創部四十周年記念パーティが、演奏会会場から徒歩五分ほど離れた電鉄会社系ホテルの宴会場で行われる。
奏も今年は節目の定演というのもあり、朝から会場入りし、ゲネプロの様子を同期の人たちと見ていた。
その後の創部四十周年記念パーティに出席する事も考え、奏はグレージュのノーカラーのショートジャケットとダークブラウンのワンピーススーツで演奏会に来ている。
第一部のクラシカルステージのゲネプロが終了して休憩時間になると、奏は、化粧直しをするために、一旦ホールを出てロビーへと向かう。
重厚な扉を両手で押し開けると、そこには良質のダークネイビーのスーツを纏い、スタッフブルゾンを羽織った葉山怜がリペアラーとして来場していた。
「あ……おはようございます」
「おはよう、奏さん」
先日、湘南ドライブの帰りに怜から告白された事を思い出した奏は、胸の奥がギュっと痛み、その場に立ち竦んでしまった。
(そう言えば、葉山さんにまだ返事してなかった……どうしよう……)
そんな奏の考えを見抜くように、怜が緩やかな歩調で奏に近付いてくる。
「今日は朝から来てるのか?」
「はい。節目の定演なので、ゲネプロから見たいなぁ、と。葉山さんはリペアラーとして来たんですよね?」
「ああ。本番直前に楽器が壊れたり不調になったりする事もあるからな。下手すると、本番中に壊れる事もある。今日の俺は、まぁ保険みたいなモンだよ。それで、奏さんは定演後の創部四十周年記念パーティに行くんだろ?」
「はい。行きます」
奏の返事を聞いた怜が、ふわりとした表情を浮かべ、『俺も』と答えた。
「茅場先生から招待状が送られてきた時はビックリしたよ。まさか俺なんかが招待されるなんて思いもしなかったからさ。それにしても、セットリストを見せてもらったけど、すげぇな。さすがは天下の片品だな」
「藤学だって、毎年定演は凄いじゃないですか。客演でJ響の先生呼んだり」
「藤学は俺らが現役だった頃に比べたら、今の現役生の方がすげぇな。最近はマーチングにも力を入れてるし」
彼女は視線を彼の手元に向ける。
リペア用の工具が入っていると思われる本革製の鞄は使い込まれ、所々大きな傷が付いている。
「リペア用の鞄、年季が入ってますね」
「ああ、これな。専門学校時代の恩師に卒業祝いで頂いたんだ。丈夫で使いやすいし、壊れるまで使い倒す、みたいな」
怜の性格を象徴しているかのように、一つのものを長く大事に愛用している事が、工具鞄を一目見て感じられた。
二人の会話が途切れ、沈黙が包まれる。何人かの諸先輩や奏の同期生、後輩たちが、彼女と怜の様子を見ながら素通りしていく。
そして奏にとって、嫌でも見覚えのあるOBが、怜の後方にいるのを見つけてしまった。
彼女の意思の強い瞳が徐々に見開いていくと同時に、目力と輝きが失われていく。
約十年前の忌々しい記憶が怒涛のように湧き上がり、奏が怯えるような表情を映し出した。
男はまだ、彼女の存在に気付いていない。
(あれは…………中野……セン……パイ)
怜は、奏が急に表情を強張らせているのを見逃さなかった。
「奏さん? どうした?」
怜よりも少しずれた方向に視線を見やる奏。
一点を見つめ続ける彼女の視線を、怜も追いかけるように後ろを振り返る。
「い、いや、何でもない……です。そ……そろそろポップスステージのゲネプロが始まりそうなので行きますね」
彼に一礼し、胸の内をごまかすように、そそくさと立ち去ろうとする奏に、怜が呼び止めた。
「奏さん」
奏は振り返り、奥二重の涼しげな瞳を見つめ返す。怜は何かを言いかけたが、
「いや……何でもない」
と答えるしかなかった。
「すみません。失礼します」
奏が足早にパウダールームへ向かっていくのを見届ける。
怜は、『奏が納得のいく答えが出るまで待つ』と言ったのにも関わらず、本当なら今すぐにでも、告白の返事を聞きたいところだった。
だが、彼女の恐怖に慄くあの表情を見た時、彼は何も言えなかった。
怜は今一度振り返り、彼女が凝視していた方を見やる。
そこには、屈強そうな身体つきの男と、恐らく同期と思われる中肉中背の男が数人。
「…………あの体格のいい男か?」
怜は冷淡な視線を向けた後、顧問の茅場先生が待つ控え室へと向かっていった。