テラーノベル
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日下部と遥が教室に足を踏み入れた瞬間、空気が、静かに、しかし確実に歪んでいた。
誰もがそこにいるのに、誰もが黙っている。かすかな衣擦れの音だけが耳につくほど、異様な沈黙だった。
遥が鞄を机に置いた、そのときだった。
「――おはようございます、”先生”」
ひとりの女子が、急に教壇の前に立った。制服の胸元をきちんと正し、深く頭を下げる。
そして、次々に起き上がる他の生徒たち。
「おはようございます、先生」
「よろしくお願いします、先生」
彼らが向かっているのは、本物の教師ではない。遥と日下部、ふたりを冷ややかに見下ろす、数人の男子グループ――そのうちのひとりが、悠然と立ち上がった。
「よーし、じゃあ今日は始めようか。……『授業』をさ」
――「授業」。
それは、新たな“罰”だった。
授業科目は、ふたりの「不適切な行動についての考察」。
「教科書」は、ふたりのノートや過去の発言、些細な仕草、他生徒が拾ったゴミや落書き、作られた噂。
「まず、“日下部くん”からの提出物。どうやら彼は、”無抵抗”という方法で問題を回避しようとしていたようですねぇ」
「静かにしてることが偉いとでも思ってんの? 何も言わないのって、一番悪いよねー」
「さすが、逃げることにかけては一級品だ」
教卓代わりの机に日下部のノートが叩きつけられる。その表紙には、赤いマジックで太く「観察対象」と書かれていた。
遥は、席を立てずにいた。いや、立とうとすればきっと誰かが椅子を蹴り倒すだろう。全身が知っている。これは“黙って耐える”ことすら許されない時間だ。
そして視線が、彼へと向けられた。
「それでは、“遥”。あなたは昨日の『反省』を活かして、今日はきちんと“話すこと”ができますか?」
彼の席の周りには、すでに何人もの生徒が立ちはだかっていた。逃げ場はない。
「話せないなら、それ相応の罰が必要ですよねぇ?」
「というわけで、本日用意しました。『身体を使って表現する道徳の時間』です」
そして、生徒のひとりが取り出したのは、一本のチョークだった。
「黒板に、十回書きなよ。“僕は無価値な人間です”って」
「字が汚かったら、減点するからね。で、点数が足りなかったら、“居残り”」
「つーかさ、こいつ字も下手だしな。練習にはちょうどいいじゃん」
遥は、黙っていた。が、その沈黙すら、嘲笑の材料になる。
「……返事は?」
肩を掴まれ、強く押された。
「聞こえてるだろ。“先生”に、返事しなきゃ」
ゆっくりと立ち上がる。足が、冷たい。目の前の黒板が、遠い。視界が、揺れる。
「……はい……」
しぼり出した声が、笑い声に飲まれた。
「……いい子ですね~。じゃあ、“日下部くん”も、書いてあげたら? 付き添い指導ってことで」
「そーだそーだ。ほら、お前ら、仲いいもんな?」
ふたり分のチョークが手渡される。まるで、ふたりが“ペア”でこの授業を受けているかのように。
笑い声、囁き声、携帯のカメラの音。
そのすべてが、“日常”のなかにある。
彼らの、破壊された、日常の。
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