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第4話 子どもの熱
昼の畑には、
子どもの声がよく響く。
風より先に走ってきて、
畝の端で止まりきれず、
土を少し崩し、
叱られて、
それでもまた笑う。
ミュオは井戸のそばで、
洗ったばかりの根菜を籠へ入れていた。
水のしずくが灰色の羽先を伝い、
首もとの紫へ小さく残る。
その時、
あのそばかすの子が、
道の向こうから手を振った。
「ミュオー」
その後ろにも、
ふたり、三人、
さらにふたり。
頬の丸い子、
前髪を短く切りすぎた子、
耳のうしろで髪を二つにまとめた子。
みんな、足だけは遠慮がない。
おばあちゃんが畑の向こうで顔を上げる。
「走るなら畝をまたぐんじゃないよ」
言い終わる前に、
ひとりがまたぎそこねて、
土を少し削った。
すぐに止まる。
笑いが半分、
しまった顔が半分。
おばあちゃんはため息をついたあと、
口もとだけで笑った。
「ほらね」
子どもたちは畑の端へ集まった。
ミュオを囲む。
ぐるりと。
でも大人の囲み方とはちがう。
追いつめる丸ではなく、
見たいものをのぞきこむ丸だった。
「ねえ、ミュオ」
「この前、また空変えたの」
「畑の味も変えたってほんと」
「詩、言って」
「五七五のやつ」
ことばが前から横から飛んでくる。
ミュオは籠を抱えたまま、
何度かまばたきをした。
冷たくはない。
けれど熱い。
子どもたちの気持ちは、
おばあちゃんの手みたいにゆっくりではなく、
火にかけた鍋のふちみたいに、ぱちぱち跳ねる。
その熱が、
ミュオの羽先をくすぐる。
重くはならない。
ただ、落ちつかない。
「し」
ミュオがくちばしをひらくと、
みんな一斉に黙る。
その黙り方すら、
まだ遊びの途中にある。
「し、は」
「しってなに」
先にそばかすの子が聞いた。
おばあちゃんがゆっくり歩いてくる。
小柄な背すじ。
土のついた指先。
茶色のもんぺの膝に、
朝ついた乾きかけの土。
「ことばを、ちゃんと置くんだよ」
子どもたちが顔を向ける。
「ちゃんと、って?」
「うまく?」
「おもしろく?」
おばあちゃんは首をかしげる。
「うまいのとも、ちがうねえ」
ミュオはその言い方を聞きながら、
胸の奥で小さくうなずいた。
うまさだけじゃない。
並べればいいわけでもない。
ことばには、
乗るものがある。
重さ、とまではまだ言えない。
でも、軽いままでは届かない何かがある。
子どもたちは、もう待てなかった。
「やる」
「わたしも」
「五七五、言う」
「言ったら空、変わるかな」
そばかすの子が胸を張る。
「おれが一番に言う」
すぐに、前髪を切りすぎた子が言い返す。
「だめ、私が先」
「じゃんけん」
「じゃんけんだ」
畑の端で、
手がいくつも上下する。
その勢いに、
ミュオは少しだけ首を引いた。
おばあちゃんが笑う。
「順番ね」
勝ったのは、
髪を二つにまとめた子だった。
その子は一歩前へ出る。
足の甲に土。
袖口に草の種。
目だけがやけに真剣だ。
「えっとね」
考える。
すぐ横で、ほかの子が肩を揺らす。
早く早く、と顔が言っている。
その子は空を見て、
畑を見て、
そして言った。
「きょうのひは
あつくてまぶしい
おなかすく」
言い終わるやいなや、
自分で笑った。
まわりも笑う。
たしかに五、七、五に近い。
音の数は足りている。
景色もある。
おなかすく、も本当だろう。
みんなが空を見上げる。
何も変わらない。
風が吹く。
葉が返る。
井戸のつるべがかすかに鳴る。
それだけだった。
「なんで」
「変わんない」
「もう一回」
「もっとすごいの言わなきゃ」
次はそばかすの子が前へ出る。
「いくよ」
胸を張り、
声だけ大きく言う。
「ミュオさん
そらをへんにして
みせてくれ」
子どもたちが吹き出す。
おばあちゃんまで肩を揺らす。
ミュオも、
羽先を小さくふるわせた。
でも、空は変わらない。
そばかすの子は眉をしかめる。
「へんだな」
おばあちゃんが言う。
「頼むだけじゃだめなんじゃないかい」
「じゃあ、どうするの」
その問いに、
おばあちゃんはすぐ答えなかった。
かわりに、ミュオを見た。
灰色の羽毛。
水色寄りの目。
首もとの淡い紫。
畑の陽ざしの下で、
見た目だけなら少し不思議な鳥みたいにも見える。
けれど、その目の奥では、
いま、子どもたちのことばの軽さと、
軽さだけではないまぶしさを、
ちゃんと受け取っていた。
ミュオは、
子どもたちを順に見た。
みんな、熱い。
知りたい。
まねしたい。
できたらすごい。
やれたら楽しい。
その熱はほんものだ。
でも、
まだ、飛び跳ねている。
土へ沈む前の雨つぶみたいに、
表面を転がって、
きらきらしている。
「ことば」
ミュオが言う。
「ことば、だけ
だめ」
子どもたちが顔を見合わせる。
「じゃあ、なに」
「気合い?」
「声?」
「数?」
ミュオは首を振った。
うまく言えない。
胸の奥にあるものを、
里のことばへ置き換えるのはまだ難しい。
おばあちゃんが畝へしゃがみこみ、
土をひとつかみ持ち上げた。
「こういうのかねえ」
手のひらの土は、
さらさらとこぼれる。
でも全部は落ちきらず、
指のしわへ少し残る。
「つかんだだけじゃ、落ちるだろ」
子どもたちは手元を見る。
「でも、少し残る」
おばあちゃんはその土を、
また畝へ戻した。
「残ったぶんがいるのかもねえ」
そばかすの子が、
自分の手にも土をのせた。
ぎゅっと握る。
ひらく。
たしかに少し残る。
「これ?」
「似てるかもしれないね」
ミュオは、そのやりとりを見て、
胸の中が少しあたたかくなった。
おばあちゃんのことばは、
いつも、無理に言い切らない。
でも、逃がしもしない。
子どもたちは、
それから遊びのように五七五を言いはじめた。
「かえるいる
みどりのはっぱの
したにいる」
「おかしほしい
でもいまはだめと
かあがいう」
「きのうより
きょうのほうがちょっと
せがのびた」
どれも、聞くと顔が見える。
畑の風景も、
家の台所も、
母親に叱られた夕方も、
ちゃんと入っている。
けれど、
空は変わらない。
土も揺れない。
葉も急には伸びない。
子どもたちは何度か言って、
やがて悔しそうな顔になった。
「なんでミュオだけ」
「ずるい」
「いや、ずるくないけど」
「でも、なんで」
その「なんで」は、
責めるものではなく、
届かないものを前にした時の声だった。
ミュオは、井戸の縁へ手を置いた。
冷たい石の感触。
水の深い気配。
その下で、ことばがゆっくり形になる。
「こころ」
子どもたちが黙る。
ミュオは、自分の胸を軽く叩いた。
「ここ
おもくなる」
羽先へ触れる。
「かるくもなる」
それから畑を見る。
「ことば
ここ
のる」
うまくはない。
でも、言いたいことの近くへ、
少しだけ降りられた気がした。
そばかすの子が眉を寄せる。
「重いって、いやなやつ?」
ミュオは考える。
いやな時もある。
冷たい視線を向けられた時、
羽はほんとうに重くなった。
でも、それだけではない。
おばあちゃんがじいさんのことを話した時も、
胸には重さがあった。
あの重さは、
つらいだけじゃなかった。
ミュオはゆっくり言う。
「だいじ、も
おもい」
子どもたちは、また顔を見合わせる。
分かったような、
分からないような、
その間の顔。
おばあちゃんが言う。
「持ったまま歩くもの、あるだろう」
「学校のかばん?」
「水の入った桶?」
「弟」
最後の声に、
みんな笑う。
おばあちゃんも笑ってから、
でも、と続ける。
「見えないのに持ってるものもあるんだよ」
そのひと言が落ちると、
子どもたちの笑いが少しだけおさまった。
風が通る。
畑の葉が、ざわりと返る。
その時、
耳のうしろで髪を二つにまとめた子が、
ぽつりと言った。
「私、この前、うちの犬いなくなった」
急に出たその声は、
さっきまでのはしゃぎと違っていた。
まっすぐで、
小さくて、
でも逃げ場がない。
みんながその子を見る。
その子は自分の足元を見ながら続ける。
「帰ってこなくて、
母さん、もうだめだろって言ったけど、
夜、足音する気がして、
戸、何回も見た」
風がやむ。
おばあちゃんの顔が、
すっと静かになる。
ミュオは、その子の声を聞いた瞬間、
胸の奥が沈むのを感じた。
重い。
でも、冷たくない。
深い。
手で持ち上げたら、指に跡が残りそうな重さだった。
その子が、少し唇をなめてから言う。
「それも、五七五になるかな」
だれもすぐには答えない。
ミュオは一歩、前へ出た。
子どもたちの輪が、
自然に少しひらく。
ミュオはその子の近くでしゃがんだ。
長い脚をたたみ、
灰色の羽毛へ昼の光を受けながら、
その子の目線まで降りる。
そして、言う。
「よるの とを
なんども みたね
かえらずに」
言った瞬間、
畑の上の空気が少しだけやわらいだ。
大きな変化ではない。
太陽の色も変わらない。
空に星も増えない。
でも、
その子の肩が、
ほんの少し下がった。
息がひとつ、ほどけた。
おばあちゃんが、
小さくうなずく。
そばかすの子は、
その様子を見て口をひらいたまま止まっていた。
「……今の、なんかちがった」
前髪を切りすぎた子も言う。
「うん。空は変わってないのに」
ミュオは、自分でも分かっていた。
ことばが、
景色をひっくり返したわけじゃない。
でも、
誰かの胸に乗っていたものへ、
そっと手を添えた。
その時のことばは、
さっきまでの遊びのことばとは、
やっぱりちがう。
子どもたちの顔から、
少しだけ熱が引いた。
かわりに、
じっと見つめる静けさが入る。
それでも、こわくはない。
知りたい気持ちは、
まだそこにある。
そばかすの子が、
土を見ながら言う。
「じゃあ、まねじゃだめなんだ」
おばあちゃんが答える。
「まねから始まることもあるよ」
子どもたちが顔を上げる。
「でも、まねのままだと、軽いままだねえ」
軽い。
そのことばが、
畑の上にすとんと落ちた。
ミュオはその響きを胸の中でなぞる。
軽いことば。
重いことば。
軽いのが悪いわけではない。
笑う時のことばは軽くていい。
走る時の声も軽いほうがいい。
でも、
届くことばは、
少しだけ沈んでいる。
土に触れた水みたいに。
子どもたちは、そのあと急に静かになった。
それぞれ、畑を見たり、
土をつまんだり、
自分の膝の傷をなでたりしている。
昼の光が少し傾きはじめる。
おばあちゃんが立ち上がった。
「ほら、うちで麦茶でも飲むかい」
その声で、
子どもたちの熱がまた少し戻る。
「飲む」
「行く」
「冷えてる?」
「おやつある?」
最後のひと言に、
おばあちゃんが笑う。
「欲ばりだねえ」
家の縁側へ並んで座ると、
子どもたちの見た目がいっそうよく見えた。
頬の丸い子は、
笑うたびに前歯がのぞく。
前髪を短く切りすぎた子は、
額が広く見えて、そこへ汗が細く光る。
髪を二つにまとめた子は、
泣きそうな顔をしたあとのせいか、
まつ毛が少しだけ束になっていた。
そのひとりひとりに、
それぞれの熱がある。
じっとしていられない熱。
悔しい熱。
知りたい熱。
言えなかったことを、やっと言ったあとの熱。
ミュオは、麦茶の入ったコップを両手で持ちながら、
その全部を感じていた。
おばあちゃんが、
皿へ切った甘い野菜をのせて持ってくる。
「この前より、また甘くなったよ」
そばかすの子がかじる。
目を丸くする。
「ほんとだ」
前髪の短い子もかじる。
「なんで」
おばあちゃんは、ミュオを見た。
ミュオも、おばあちゃんを見る。
ふたりとも、すぐには答えない。
甘さの理由は、
ひとつじゃない。
水。
日ざし。
土。
手のかけ方。
待った日数。
言葉。
いなくなった人。
残った人。
今日ここで笑った子どもたち。
全部が、少しずつ入っている。
ミュオは、
その甘さを舌の上で確かめながら、
ぽつりと言った。
「みんな
ある」
子どもたちが首をかしげる。
ミュオは畑のほうを見る。
「こころ
みんな、ある
でも」
そこで一度止まる。
おばあちゃんが、
続きを急がせず待つ。
ミュオは羽先を見つめた。
灰色の細い羽。
風を受ければ揺れる。
冷たい視線なら重くなる。
やさしい手なら軽くなる。
その変化を思い出しながら、
言う。
「おもさ
ちがう」
子どもたちは黙って聞く。
「おもさ、ちがうと
ことば
ちがう」
そばかすの子が、
小さくうなずいた。
まだ全部は分かっていない顔だ。
でも、
分からないまま大事に持ち帰る顔をしていた。
帰りぎわ、
髪を二つにまとめた子が、
縁側の端でふり返った。
「また、言っていい?」
ミュオはうなずく。
「いい」
その子は少し笑った。
「今度は、ちゃんと考える」
その「ちゃんと」は、
朝の遊びの勢いとはもう少しちがっていた。
子どもたちが走って帰っていく。
今度は畝をまたがないよう、
少しだけ遠回りして。
おばあちゃんはその背中を見送り、
湯のみを片づけながら言う。
「熱いねえ、子どもは」
ミュオはうなずく。
「はねる」
「そうそう。はねるねえ」
ふたりで笑う。
でも、ミュオは思っていた。
はねる熱にも、
いつか沈む日がくる。
土へ入るみたいに、
胸の奥へ落ちていく日がくる。
その時、
ことばはまた変わるのだろう。
夕方、
畑へ戻ると、
昼のにぎやかさが少しだけ残っていた。
子どもの足跡。
崩しかけた畝の端。
笑い声の残りみたいな空気。
ミュオはその中へ立ち、
静かに土へ触れた。
まだあたたかい。
軽い熱も、
残っている。
ミュオは目を閉じる。
今日のことばたちが、
胸の中でゆっくり沈んでいく。
遊びの五七五。
届かなかった五七五。
やっと届いた五七五。
その違いが、
土の湿りみたいに分かる。
おばあちゃんが、
少し離れたところで草を抜いている。
小柄な背。
まっすぐな首すじ。
土のついた指。
その見た目ごと、
ここで生きてきた時間がある。
ミュオは、風の中で、
小さくつぶやいた。
「かるい ねつ
つちで すこしずつ
おもくなる」
ことばは畑へ落ちた。
空は変わらない。
太陽もそのまま。
でも、畝の上の風だけが、
やわらかく一度、返った。
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