テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第5話 観測対象
里へ知らない車が入ってきたのは、
昼前のことだった。
山道に合わない細い音を立てて、
砂利をゆっくり踏みながら、
家々のあいだを進んでくる。
畑の土を返していた里の男が顔を上げた。
井戸で洗い物をしていた女たちも手を止める。
子どもは少し遠くから見て、
大人は少し近くから見る。
よそ者の乗った車は、
おばあちゃんの家の前で止まった。
戸口のそばにいたミュオは、
その音を聞いた瞬間に羽先がかすかに沈むのを感じた。
まだ誰も何もしていない。
それでも、
近づいてくる気配の中に、
やわらかくないものが混じっていた。
戸が開く。
先に降りてきたのは男だった。
背が高い。
細い。
灰色の上着の胸に、細いペンが何本も並んでいる。
髪はきっちり撫でつけられ、
丸いレンズの眼鏡の奥で、目だけが忙しく動いていた。
そのあとに女が降りる。
肩までの髪を後ろで低く束ね、
黄緑の薄い上着の下に、襟のきれいな服。
手帳を胸に抱え、
足もとを確かめるように一歩ずつ歩く。
おばあちゃんは畑から戻ってくる途中だった。
茶色のもんぺの膝に土をつけたまま、
いつもの歩幅で門のところまで来る。
「何か用かい」
男は軽く会釈した。
「突然すみません。少し、お話をうかがいたくて」
声は低すぎず高すぎず、
きれいに磨かれた器みたいな声だった。
角は立っていない。
けれど、手ざわりがない。
女はすでに、
おばあちゃんの後ろに立つミュオを見ていた。
灰色の羽毛。
長い首。
水色寄りの目。
首もとへ淡くにじむ紫。
その見た目を、
ひとつひとつ切り取るみたいに見ている。
ミュオは、視線を受けたところから、
じわりと冷えていくのを感じた。
里の人の視線とも少しちがう。
怖がっているわけではない。
追い払いたいわけでもない。
ただ、
測っている。
長さ。
動き。
反応。
声。
沈黙。
見たもの全部へ、
目盛りをつけて並べようとする視線だった。
おばあちゃんが一歩だけ前へ出る。
その背中は小さい。
けれど、
こういう時は妙に広く見える。
「話だけなら、ここでいいよ」
男は笑った。
笑ったが、
目じりはあまり動かなかった。
「例の落下物について、いくつか確認を」
落下物。
その呼び方が、
ミュオの胸のどこかへ細く刺さった。
物。
人でも、客でも、名を持つものでもなく、
まず先に、落ちてきたもの。
おばあちゃんはそれを顔に出さない。
でも、
返事までのひと呼吸がいつもより短かった。
「落ちたのは見たよ」
「中から、その」
男は言葉を選ぶみたいに少し止まり、
それからミュオの方へ視線を向けた。
「生体が現れた、と」
生体。
ミュオの羽先がまた少し下がる。
おばあちゃんはその気配に気づいたみたいに、
横目だけを動かした。
「ミュオだよ」
男がまばたきする。
「……名前があるんですか」
「あるよ。呼ばれてるからね」
女が手帳を開く。
紙の擦れる音が、
妙に乾いて聞こえた。
「ミュオさん」
その呼び方は間違っていない。
でも、
そこに乗っているものが少なかった。
畑の土も、
台所の湯気も、
縁側の風も知らない声。
名を呼んでいるのに、
呼びかけになりきらない。
ミュオは答えず、
おばあちゃんの影へ少し寄った。
男はポケットから小さな機械を出した。
丸い面がつき、
細い棒が伸びている。
光が小さく点いている。
里の男がいつのまにか門のそばまで来ていて、
その手元を見て眉を寄せた。
「何すんだ」
男は顔を上げる。
「大したことではありません。温度や反応を」
その言葉に、
ミュオの胸が冷えた。
温度。
それはミュオにとって、
名前より先にあるものだった。
やさしさも、
警戒も、
痛みも、
ぜんぶ温度で先に届く。
その温度を、
この人たちは道具で測るのだろうか。
おばあちゃんが言う。
「測る前に、茶でも飲むかい」
男は少し意外そうな顔をした。
女も手帳から目を上げる。
「いえ、お気づかいなく」
「気づかってるんじゃないよ。山道来たんだろ。のど乾くだろうって話さ」
おばあちゃんはそう言うと、
返事を待たずに家へ入った。
男と女は一瞬だけ顔を見合わせる。
そのあいだに、
里の男がさらに近づいた。
肩の広い体。
草の汁のしみた作業着。
口を結ぶと線が細くなる顔。
「変なことすんなよ」
男はわずかに笑う。
「調査です」
「似たようなこと言うやつで、ろくなの見たことねえ」
女が静かに口をひらく。
「私たちは、危害を加えるつもりはありません」
その声はきれいだった。
でも、
きれいに整いすぎていて、
土の上にそのまま置くには少し硬い。
ミュオは、
その声の表面をなでるみたいに聞いた。
冷たい、
とまではいかない。
でも、
あたたまる前の皿みたいな声だった。
家の中から、
湯のみの触れ合う音がする。
おばあちゃんが戻ってくる。
湯気の立つ茶を盆にのせて。
「ほら」
戸口の縁台へ置く。
男と女は少しためらってから座った。
山道に合わないきれいな靴の先へ、
細かな土がつく。
女はそれを見たが、
ぬぐわなかった。
男は湯のみを持ちながら、
やっと少しだけ息をついた。
「ありがとうございます」
今度の声は、
さっきより少しだけ人の声だった。
おばあちゃんは向かいへ座る。
「何を知りたいんだい」
男は茶をひと口飲み、
それから言った。
「現象です」
また、その言葉だった。
「空の変化、作物への影響、発話との関連」
女が手帳へ何かを書きこむ。
ペン先の動きは速い。
「実際に確認できればと思いまして」
ミュオは、そのひと言で、
羽の内側まで冷えるのを感じた。
確認。
昨日までの言葉は、
畑の土へ置くものだった。
おばあちゃんの顔を見て、
子どもの肩の下がり方を見て、
夜空のひとつ増えた星を見て、
たしかめるものだった。
でも今、目の前に置かれた「確認」は、
もっと固い。
はじめから答えの形が決まっていて、
そこへ押しこめるための言葉だった。
男がミュオを見る。
「詩を、ひとつ読んでもらえますか」
おばあちゃんの指が、
湯のみのふちで止まった。
里の男が鼻を鳴らす。
「芸を見せろってか」
「そういう言い方では」
「同じだ」
女が言う。
「実際に起きるなら、記録する必要があります」
記録。
必要。
その言葉たちは、
きれいに並んでいる。
並んでいるのに、
ミュオの胸へ入る前に冷えていた。
男がやわらかい顔を作る。
「難しいことではありません。いつも通りで」
いつも通り。
そのひと言が、
いちばん遠かった。
いつも通りの言葉は、
求められて出るものではなかった。
畑の土へ指を入れた時。
おばあちゃんの過去が台所の湯気の向こうに見えた時。
子どもの声が、遊びから少しだけ沈んだ時。
そういう時に、
胸の奥で勝手にほどけるものだった。
今は、
ほどけない。
ミュオは口をひらいた。
閉じた。
胸の中を探る。
五。
七。
五。
数は浮かぶ。
でも、その中身が来ない。
おばあちゃんが静かに言う。
「無理に読まなくていいよ」
男はすぐに返す。
「無理にとは言っていません」
「でも、今そうなってる」
男は口をつぐむ。
女はミュオを見ていた。
観察する目。
けれど、
その奥にほんの少しだけ、
迷いもあった。
この場に必要なのは何か。
本当に今ここで測るべきか。
そんなふうな迷い。
けれど手帳は閉じない。
ミュオは庭へ出た。
みんなの視線が背へ乗る。
ひとつずつは軽くても、
重なると羽が沈む。
畑の端へ立つ。
土を見下ろす。
指先で触れる。
いつもなら、
そこに残る温度が流れこんでくる。
おばあちゃんの手。
朝の水。
待った時間。
子どもの足音。
でも今は、
土の上に別のものが薄く乗っていた。
見られている気配。
確かめられる気配。
失敗するかもしれない気配。
その薄い膜が、
土のぬくもりを遠くしている。
ミュオは目を閉じた。
言葉を探す。
つち。
みず。
ひる。
かぜ。
どれも本当だ。
でも、軽い。
表面を撫でるだけで、
沈まない。
口に出してみる。
「つちの うえ
ひるの かぜきて
……」
そこで止まる。
最後の五が来ない。
来たとしても、
空っぽのまま落ちる気がした。
男がすぐ後ろで、
息をひそめるように待っている。
女のペン先が、
いつでも動けるところで止まっている。
里の男は腕を組み、
苦い顔をしている。
おばあちゃんだけが、
じっと黙っていた。
ミュオはもう一度言おうとした。
「ひるの かぜ
つちの うえでは
……」
だめだった。
ことばが、
数に押されてしまう。
並べなきゃいけない、
読まなきゃいけない、
変わらなきゃいけない。
そう思ったとたん、
胸の奥のやわらかいところが、
すっと冷えた。
羽が重い。
首もとの紫が、
くすんで見えるほどだった。
男が言う。
「緊張していますか」
その問いかけもまた、
測るための言葉だった。
ミュオは振り向かない。
緊張、と言われると、
今あるものが少しずれる。
もっと手前の、
言葉になる前の冷えを、
この人たちは別の名で呼ぶ。
それがかなしかった。
空を見上げる。
いつかなら、
ここで星が増えた。
太陽も緑に輝いた。
でも今日は、
空は動かない。
雲の薄い筋がそのまま流れ、
昼の光が畝へ落ちるだけ。
何も起きない。
男が低くつぶやく。
「条件がちがうのか」
女が手帳へ書く。
「再現性、現時点で確認できず」
その言葉が、
ミュオの背へ落ちた。
再現性。
確認できず。
胸の中へ冷たい石が沈む。
里の男が舌打ちした。
「帰れよ」
おばあちゃんが立ち上がる。
小柄な体なのに、
その動きには迷いがなかった。
「今日はもう終わりだね」
男は眼鏡の位置を直した。
「しかし」
「終わりだよ」
声は大きくない。
でも、畑の上でまっすぐ立つ声だった。
女が手帳を閉じる。
ぱたん、という音が、
今日いちばんはっきり響いた。
男はなおも何か言いたそうだったが、
里の男が一歩前へ出たので、
それ以上は進まなかった。
「また日を改めて」
と男は言った。
おばあちゃんは答えない。
車が去っていくまで、
ミュオは畑の端から動かなかった。
細い音が遠ざかる。
砂利を踏む音が薄くなる。
やがて里は、
いつもの昼の気配へ戻っていく。
でも、
戻りきらないものが残った。
おばあちゃんが近づいてくる。
土のついた指先。
茶色のもんぺ。
目じりの深いしわ。
その見た目が近づいてくるだけで、
少しだけ息がしやすくなる。
「ミュオ」
呼ばれる。
名の音が、
今日はいつもより深く胸へ入る。
ミュオはやっと振り向いた。
「でなかった」
声が小さい。
おばあちゃんはうなずく。
「うん」
責めない。
急かさない。
どうしてとも聞かない。
そのうなずき方に、
ミュオは少しだけ救われる。
けれど、
救われてもなお、
胸の冷えは残っていた。
「からっぽ」
そう言って、
自分の胸へ触れる。
おばあちゃんはその手を見る。
「冷えたねえ」
ミュオは驚いて顔を上げる。
おばあちゃんは、
ミュオが感じたことを、
そのまま別のことばで受けとめていた。
「見られすぎると、そうなる時もあるよ」
ミュオはまばたきをした。
見られすぎる。
たしかにそうだった。
眼鏡の奥の目。
手帳の上のペン。
里の男の警戒。
みんなの待つ気配。
それが薄い膜みたいに、
胸のやわらかいところを包んでしまった。
おばあちゃんは畑へしゃがみこみ、
土をひとつかみした。
「土もさ、ぎゅうぎゅう踏まれると固くなるだろ」
その土を、
指先でほぐす。
「でも、水やって、待ってりゃ戻る」
ミュオはその手元を見た。
今日の土は、
たしかに少し固く感じる。
でも、
おばあちゃんの指に触れられると、
ゆっくり息を戻していくみたいだった。
夕方になっても、
ミュオはいつものように言葉を読まなかった。
台所で煮物の匂いがしても、
縁側で風を受けても、
胸の中の粒が集まらない。
おばあちゃんは何も言わず、
椀を並べ、
汁をよそい、
いつものように向かいへ座った。
食べものの味は、
ちゃんとした。
土の甘みも、
やわらかい塩気もある。
でも、
その味の奥へ行く前に、
何かがひっかかる。
昼に聞いた言葉が、
まだ胸のどこかに残っている。
現象。
確認。
再現性。
どれも、
土の匂いがしない。
夜。
縁側へ出る。
空は晴れていた。
星が見える。
前に増えたひとつも、
ちゃんとそこにいる。
ミュオはそれを見上げた。
胸の奥を探る。
昨日までなら、
夜気と一緒にことばの粒が集まってきた。
でも今夜は、
音の並びだけが遠くで乾いている。
五。
七。
五。
数はある。
でも、
そこへ乗るものが来ない。
ミュオは小さく言ってみる。
「よるの そら
……」
それきりだった。
続きを言えない。
言えないまま見上げる空は、
ただの夜空だった。
星は増えない。
ひとつも。
そのことが、
静かにかなしかった。
おばあちゃんが縁側へ出てくる。
湯のみをふたつ持って。
ひとつをミュオのそばへ置く。
湯気が細く立つ。
「増えないねえ」
ミュオはうなずく。
「こない」
「今日は来ない日だね」
その言い方に、
ミュオは少しだけ目を上げた。
来ない日。
できない、ではなく。
終わった、でもなく。
来ない日。
おばあちゃんは湯のみを包みながら、
空を見る。
「畑もそうだよ。芽が出る日もあれば、何も見えない日もある」
ミュオは湯気の向こうで、
その横顔を見る。
目じりのしわ。
小柄な肩。
一日の終わりで少しだけ丸くなった背中。
その見た目全部が、
待つことを知っている顔だった。
ミュオは湯のみへくちばしを近づけた。
あたたかい。
冷えた胸の奥へ、
少しずつ戻ってくる熱がある。
でも、
今夜はまだ足りない。
星は増えないまま、
空に前からある数だけ並んでいた。
ミュオはその静かな数を見つめながら、
自分が何かになってしまった気がしていた。
ミュオ。
ではなく。
落下物。
生体。
現象。
観測対象。
呼ばれたくない名が、
羽のあいだへ薄く入りこんでくる。
それを振り払えず、
ミュオは首もとの紫へ顔を寄せた。
おばあちゃんは何も言わない。
ただ、
縁側の板をひとつぶん詰めて、
少しだけ近くに座りなおした。
その近さだけで、
ミュオの羽先は、
ほんの少しだけ軽くなった。
けれど今夜、
空に新しい星は生まれなかった。
ただ、
前からある星たちが、
遠く、静かにまたたいていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#ミステリー