コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌日の午前十一時半。
奏は新宿にある電鉄系ホテルの宴会場で、グランドピアノの前に立ち、演奏の準備を進めている。
この日は、ハヤマ ミュージカルインストゥルメンツの創業五十周年記念パーティでピアノを弾く仕事。
華やかな場所で演奏するとはいえ、奏はあくまでも裏方なので、ブラックの生地にラメが控えめに入ったミモレ丈のワンピースで会場入りした。
ハヤマ関連会社というのもあり、彼女はクラシックの曲を弾こうと考えた。
フランス近現代の作曲家、ドビュッシーとラヴェル、サティのピアノ曲から綺麗めな曲をピックアップすれば、歓談中でも耳障りになる事は無いだろう。
演奏時間は約一時間。派遣会社からは、三十分弾き、少し休憩して残り三十分を演奏する、という形を取ってもいいと言われている。
セットリストは特に作らず、今回は奏の弾きたい曲を弾きたい時に演奏する、という形をとる事にした。
(創業パーティって、何となく金曜日の夜のイメージだけど、日曜日の昼間って珍しいな……)
いつしか開宴時刻の正午になり、司会の方が開宴の言葉を述べ始めた。
社長の挨拶、ハヤマの社長の挨拶を始め、他のハヤマ関連会社の社長の挨拶が続く。
三十分以上、挨拶が続いただろうか。
ようやく、司会の方が歓談の案内をすると、奏は最初の三十分で、ドビュッシーの『アラベスク第一番』『夢』『バラード』『レントより遅く』を続けて演奏し始めた。
不意に鍵盤から顔を上げると、見覚えのある男性がいるのに気付く。
(あれ……葉山……さん?)
前髪を後ろに流し、上質でお洒落なデザインの黒い礼服に身を包んだ怜らしき男性は、ワイングラスを片手に女性と二人で話している。
奏とは正反対の可愛らしいお嬢様タイプ。
パーティに相応しく、仕立ての良いシャンパンゴールドのワンピースを纏い、高級ブランドのハイヒール。
明るめのブラウンの髪を緩く巻き、男性を見上げながら微笑んでいた。
男性は女性の腰に腕を回し、顔を近付けて囁いている。
(結局、葉山さんにも彼女がいたって事か。よくそれで私と食事に行きませんか、なんて誘ったよね……。男なんて……所詮——)
怒りに似た感情が沸々と湧き上がってきているせいなのか、ドビュッシーの『バラード』を弾いているテンポが徐々に速くなり、打鍵が強くなってきているのを、奏は嫌になるほど指先で感じた。
これでは自分で自身を煽っているような演奏ではないか。
(ヤバいヤバい……。曲のテンポが走っちゃってる。落ち着いて演奏しないと……)
気を取り直して、静かに息を吐きながら演奏に集中する。
前半最後のワルツ調の曲『レントより遅く』を弾き切った後、奏は気持ちを整えるために、一旦会場を後にした。
ロビーにあった自販機でペットボトルの緑茶を買うと、近くにあったソファーに座り、大きくため息を吐いた。
(この土日……何かサイアク……)
全面ガラス張りの窓の向こうには、新宿のビル群が圧を掛けてくるように見える。
奏にはその景色が、昨夜、谷岡が恋人の有無について話した時のグイグイ突っ込んできた様子と重なってしまう。
それを眺めながらボーっとしていると、聞き覚えのあるイケボの声色が背後から飛んできた。
「あれ? 音羽……さん?」
声のする方に顔を向けると、怜と思しき男性が様子を伺うように彼女を呼んだ。
何事も無かったように、しれっと声を掛けてくる彼を見てると、腹立たしさしか感じない。
(このお方もやっぱり『俺が誘えば女はチョロい』って思ってるんでしょ。単なる女好きのたらしじゃん)
奏は心の中で毒付いた後、
「先日はどうも」
と無表情で挨拶を返し、昨日谷岡と会った時と同様に、わざとらしく乾いた笑みを貼り付けた。