テラーノベル
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彼は叫んだ。
違う。
私は叫んだ。
書き間違えてはいけない。ここで間違えれば、私はもう戻れない。
私は叫んだ。 私は叫んだ。 私は叫んだ。
三度書けば、少しだけ息が戻る。四度書けば嘘になる。だから三度でやめる。まだ私はここにいる。ここにいる私が、いま、この紙に、私と書いている。
廊下で看護師が言った。
「彼、また起きています」
彼。
誰のことだ。
私の病室の前で、私の呼吸がある場所で、私の喉がまだ乾いていて、私の指がまだ動いていて、私の瞼の裏にさっき見た夢の灰色が残っている場所で、あの女は私を彼と呼んだ。
彼ではない。
彼は死者だ。写真だ。弔辞だ。新聞の隅で年齢と住所と死因だけになった人間だ。もう反論できない者だ。もう私と言えない者だ。
私は彼ではない。
まだ。
これを読むあなたに、最初に言っておく。
私は人を殺していない。
少なくとも、あなたが考える意味では。
刃物を使ったとか、薬を盛ったとか、階段から突き落としたとか、そういうことを期待しているなら、この先を読むのはやめた方がいい。私はそういう悪人ではない。そういう悪人なら、まだ救いがある。動機があり、手段があり、証拠があり、裁きがある。人はその四つが揃うと安心する。
けれど私は、箱に入らない。
私が最初に殺した人間の顔を、私はもう思い出せない。
だから殺したのだと思う。
駅の西口だった。雨が降っていた。夕方だった。女だったような気がする。赤い靴下を履いていた。いや、赤かったのは傘だったかもしれない。靴下は白だったかもしれない。女ではなく男だったかもしれない。若かったかもしれない。老人だったかもしれない。
その程度のことも分からない。
私はその人の横を通り過ぎた。 その人は私の横を通り過ぎた。 私たちは同じ雨の中に、一秒にも満たない時間、同時に存在した。
その人にも、私があったはずだ。
私には私がある。 あなたにはあなたがある。 ならば、その人にも、その人だけの私があった。
帰ったら何を食べるつもりだったのか。 誰を嫌っていたのか。 どんな声で笑ったのか。 夜中にどんな恥を思い出していたのか。 何を怖がっていたのか。
もう分からない。
私が忘れたからだ。
あなたは、それは殺人ではないと言うだろう。誰もが誰かを忘れて生きていると言うだろう。忘れなければ生きていけないと言うだろう。
その通りだ。
あなたは正常だ。
正常な人間は、他人を忘れて昼飯を食べる。昨日すれ違った人間の顔を忘れ、死んだ祖父の手の温度を忘れ、友人の声の高さを忘れ、忘れたことすら忘れて眠る。
私は、それができなくなった。
だから私は書き始めた。
五月十二日、午後六時四分。 駅前。紺の傘の男。右手に白い紙袋。左足を少し引きずる。咳二回。 まだ消えていない。
五月十二日、午後六時十一分。 コンビニ。名札「原田」。若い女。目の下に疲れ。弁当を温める時、左手で髪を押さえた。 まだ消えていない。
五月十三日、午前九時二十二分。 団地三階。老人。茶色い帽子。指が震えている。名前、篠田重吉。 まだ消えていない。
まだ消えていない。
まだ消えていない。
まだ消えていない。
書けば救えると思った。
私が見て、私が覚えて、私が書けば、その人は完全には彼にならないと思った。
愚かだった。
救う、という言葉がもう間違っていた。
今、廊下で足音がする。
また看護師だ。 また私を見る。 また私を彼と呼ぶ。
違う。
私はまだここにいる。 私はまだ書いている。 私はまだ、私でいる。
けれど紙の端が黒い。夜だからではない。消灯時間だからではない。黒は外から来るのではない。私の内側から滲んでいる。
急がなければならない。
私が彼になる前に。
これを読むあなたは、どうか間違えないでほしい。
私は彼ではない。
まだ、違う。
コメント
1件
うわ、これめっちゃ刺さった……。「彼」と呼ばれることで「私」が消えていく感覚、怖すぎる。書き留めて存在を繋ぎ止めようとする必死さがひしひし伝わってきて、読んでるこっちまで息が詰まった。特に「まだ消えていない」の反復が、祈りみたいで切なかった。この先どうなるんだろう、続きが気になりすぎる🔥