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どうして、こんなことになったんだろう。
タクシーの中、鍵を握りしめる私の脳裏をずっとよぎっているのは、そんな戸惑いの思いだった。
『俺と結婚して欲しい』
唐突な申し出に混乱するばかりの私に、聡一朗さんは噛んで含めるように説明してくれた。
『意外に思うかもしれないが、教授職と言うのは人付き合いが重要でね、同じ分野でもそうだし別分野の関係者との交流も頻繁に行われている』
そこから研究が進んだり、新しいプロジェクトが始まったりすることがよくあるそうで、いかにコミュニケーションをとるかがキャリアを形成する上でも重要になってくるという。
となればプライベートの交流にも及んでくるわけで、そうなるとやはり配偶者がいた方が効率がいいというのだ。
配偶者同士のつながりから研究が発展することも、まれではないらしい。
『俺ももういい歳だ。周りからは結婚の予定も訊かれるし、俺も今以上にキャリアは積みたいと思っている。だがいかんせん、俺は女性とはあまり縁がなくてね』
これは謙遜だろう、とまだ混乱している私も冷静に見抜いた。
聡一朗さんのような男性を放っておく女性はいないだろうから。
『お節介な先輩から相手を紹介されたこともあったし、自分で探してみようとも思った。だが、心を開けるような女性はいなかった』
そもそも、聡一朗さんのお眼鏡に叶うような女性なんているのだろうか。
聡一朗さんが我を忘れて愛をそそぐような、そんな幸福な女性が――。
『そこに君と出会った。短い交流だが、俺は君の人となりや、なにより勉学に対する向上心にとても感心したんだ。努力家の君なら、煩わしい人付き合いや、奥様同士の交流もこなしてくれると思った』
『私が……?』
『もちろんそれ相応の見返りは君に与えようと思っている。なにひとつ不自由な思いはさせないし、君が夢を叶えられるように十分な援助をするつもりだ』
聡一朗さんにそんな風に評価されているんだ、とうれしく思う反面、私の胸は複雑だった。
彼が提示するのは、つまり利害が一致するだけのギブアンドテイクの関係。
そこに、温もりを感じさせる愛や絆といった感情は微塵も感じられない。
『つまり、契約関係というやつですね』
私がぽそりと言うと、聡一朗さんは一瞬押し黙り、うなずいた。
『そう言われれば否定はできない。だが俺は、けして君を悪いようにはしない』
そう言って、真っ直ぐ見つめてくる瞳に嘘は感じられなかった。
『君ならよいパートナーになってくれる、そう思ったんだ』
『パートナーだなんて……私のような小娘が』
『大丈夫だよ。君の素直さやひたむきさがあれば』
『……』
『俺と結婚してくれるね』
条件は申し分ない。
語学の勉強を何不自由なく続けられるなんて夢のような話だ。
私の人となりを気に入って選んでくれたのもうれしい。誰でもいいというわけではないのだから。
でも、少し寂しかった。
聡一朗さんは私の人間性を気に入ってはくれていても、女性としては見てくれていないのだから……。
それでも、私はうなずいてしまった。
タクシーは高層マンションの前で止まった。
この最上階が、聡一朗さんの自宅だという。
今日から私と聡一朗さんが同居する場所だ。
いわゆるタワーマンションというやつよね……住むにはものすごいお金がかかるという……。
大学教授さんって、こんなにお金持ちなんだ……。
出す本はすべてベストセラーだし、メディアにも引っ張りだこだし、多くの民間企業に協力もしているって聞くし、たくさんお金を稼いでいるんだろうな。
そんな人のサポートなんて、私なんかができるんだろうか……。
『先生とあなたとじゃ、住む世界が違うのよ』
不意に紗英子さんに言われた言葉が浮かんで、胸がチクンとなった。
ああもう考えてもしょうがない。
聡一朗さんが私をと認めてくれたのだ。
私だって聡一朗さんの役に立てるのならいいと、腹をくくったじゃないか。
それに、婚姻届は出してしまっていた。
もう私は、藤沢美良。
聡一朗さんの妻なのだから。
五分ぐらいかけてやっと聡一朗さんの部屋にたどり着くと、聡一朗さんは「待っていたよ」と優しく迎え入れてくれた。
「迎えに行けなくてすまなかったね。やっと今オンライン会議が終わったところでね」
「いえ。タクシー代ありがとうございました」
私がぺこりと頭を下げると、聡一朗さんは器用に片眉を上げて言った。
「もうお礼を言う必要なんてないだろう? 妻の交通費を出し渋る夫になんて、俺はなるつもりはないからね」
あ、と顔が赤くなる私を連れて、聡一朗さんが部屋の中を案内してくれた。
まずはリビングから見渡す最上階からの眺めに圧倒されてしまう。