テラーノベル
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三〇五号室の女は、翌朝七時四十三分に部屋を出た。
紺のエプロンではなかった。 灰色の上着。黒いズボン。髪は後ろで一つに結んでいた。右手に布の鞄。左手にゴミ袋。歩く時、少しだけ右肩が上がる。
私は階段の下にいた。
待っていたのではない。
確認していた。
確認と待ち伏せは違う。 待ち伏せは相手を捕まえるためにする。 確認は相手を消さないためにする。 まったく違う。 似ているだけだ。 似ているものを同じにするのは、雑な人間のすることだ。雑な人間は人を殺す。赤い傘と赤い靴下を同じにする。篠田さんと老人を同じにする。私と彼を同じにする。
女は私を見つけると、顔を強張らせた。
記録する。
三〇五号室の女。 午前七時四十三分。 私を見て表情硬化。 警戒。 右肩が上がる。 名前、不明。 危険。
女は足早に通り過ぎようとした。
「すみません」
私は声をかけた。
女は立ち止まらなかった。
「篠田さんのことです」
その言葉で、女は止まった。
やはり知っている。
篠田さんの輪郭を、この女も少し持っている。 私だけではなかった。 私の中だけに篠田さんがいるのではなかった。
そのことに、私は安心すべきだった。 だが違った。
腹の奥が冷えた。
この女の中にある篠田さんは、私の知らない篠田さんかもしれない。 私の記録にない篠田さん。 私の手帳の外にいる篠田さん。 それは危険だった。
「あなたは、篠田さんとどんな関係ですか」
女は眉を寄せた。
「それ、あなたに言う必要あります?」
「あります」
「ないです」
「あります」
声が少し大きくなった。
女は周囲を見た。 誰もいなかった。 よかった。 いや、よくない。 誰も見ていないということは、この会話も消えやすい。
「私、管理人さんに言いますよ」
管理人。
また、人が増える。
管理人の中にも篠田さんがいる。 三〇五号室の女の中にも篠田さんがいる。 篠田さん自身の中に篠田さんがいる。 私の中にもいる。
どれが本物だ。
どれも偽物だ。
本物は篠田さんの中にしかいない。 だが篠田さんの中の篠田さんは、篠田さんが死ねば消える。 だから私は集めなければならない。 外側の偽物を集めて、少しでも内側の本物に近づけなければならない。
「名前を教えてください」
「嫌です」
「篠田さんを覚えているなら、名前が必要です」
「本当に警察呼びますよ」
警察。
その言葉が出た瞬間、私は少し楽になった。
警察なら記録する。 氏名。住所。時間。行動。証言。 警察は人を記録する。 彼らは私と同じことをしている。
だがすぐに違うと分かった。
警察の記録には、私はいない。 容疑者がいる。 関係者がいる。 被害者がいる。 男性がいる。 三十八歳がいる。 水瀬朔也がいる。
全部、彼だ。
私はいない。
女は私から離れていった。 私は追わなかった。
追えば、また言葉が濁る。 変質者。 不審者。 付きまとい。 それらの言葉は、私を私から剥がす。
その日の夕方、三〇七号室の前に行くと、扉に貼り紙があった。
来ないでください。 警察に相談します。 篠田
私はしばらく読めなかった。
篠田。
そこには確かに篠田と書かれていた。 本人の字だった。 たぶん。 少し震えている。 右上が弱い。 筆圧が途中で抜けている。
篠田さんは、まだ書ける。
まだ私に向けて言葉を出せる。
来ないでください。
それは拒絶だった。 だが同時に、生存の証明だった。
私はその紙を剥がした。
破ったのではない。 保存するために剥がした。 拒絶でもいい。 恐怖でもいい。 怒りでもいい。 篠田さんが篠田さんとして私に向けたものなら、残さなければならない。
紙の裏に、私は小さく書いた。
篠田重吉。 自筆。 私に「来ないでください」と伝達。 一人称はない。 しかし意志はある。 まだ消えていない。
その夜、私は貼り紙を枕元に置いて眠った。
夢の中で、誰かが何度も扉を叩いていた。
開けると、誰もいなかった。
ただ、扉の向こうから声だけがした。
彼はもう来ないでください。
私は目を覚まして、貼り紙を破りそうになった。
コメント
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第八話、読みました。主人公の「確認」と「待ち伏せ」の線引き、あの理屈っぽさの中に狂気と孤独がぎっしり詰まっていて、背筋が冷たくなりました。貼り紙を剥がして保存するところが特に怖くて、でも「拒絶さえも記録したい」っていう執着に胸が締め付けられました…。篠田さんの存在がどんどん輪郭を増していく感じ、続きが気になります。