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来ないでください。
その紙を、私は何度も読んだ。
来ないでください。 警察に相談します。 篠田。
私は行かなかった。
翌日も、その翌日も、三〇七号室の前には立たなかった。 団地の下までは行った。 階段の踊り場までは見た。 三階の廊下に誰が通るか、少しだけ確認した。 だが扉の前には立っていない。
約束は守っている。
篠田さんは、来ないでください、と書いた。 だから私は行かない。
では、篠田さんはどうなる。
私が行かなければ、篠田さんは誰に向かって俺はここにいると言うのか。 三〇五号室の女か。 管理人か。 警察か。 電気料金のお知らせか。 テレビか。 仏壇の中の佳代子さんか。
違う。
それらは聞くだけだ。 見届けない。 聞いたふりをする。 受け取ったふりをする。 そして忘れる。
忘れられた一人称は、腐る。
私は便箋を買った。
白いものは避けた。 白は病院の色だ。 死亡届の色だ。 カルテの色だ。 彼にされる色だ。
薄い黄色の便箋にした。
最初の一枚には、こう書いた。
篠田さんへ。 私はもう行きません。 だから、篠田さんが書いてください。 今日、食べたもの。 今日、思い出したこと。 今日、怖かったこと。 今日、自分がまだここにいると思えたこと。 一行でいいです。 「俺はここにいる」だけでもいいです。 書いてください。 消えないために。
読み返して、私は震えた。
これはよい文だと思った。
やさしい。 控えめだ。 篠田さんの意思を尊重している。 私は行かない。 私はただ、篠田さん自身に篠田さんを救ってもらう。
封筒に入れた。 差出人は書かなかった。
名前を書くと、私が入ってしまう。 これは篠田さんのためのものだ。 私が混じってはいけない。
夕方、団地へ行った。
三〇七号室の郵便受けに封筒を入れた。
音は小さかった。
かさ、と鳴った。
その音だけで、私は少し泣きそうになった。
言葉が届いた音だった。 人が消えないための、薄い紙の音だった。
翌日、返事はなかった。
郵便受けは空だった。 封筒もない。 つまり、篠田さんは受け取った。
書いているかもしれない。
手が震えて、まだ一行目で止まっているのかもしれない。 何を書けばいいか分からず、湯呑みを見ているのかもしれない。 俺はここにいる、と書こうとして、恥ずかしくなったのかもしれない。
私は待った。
三日待った。
四日目に、三〇七号室の郵便受けに紙が入っていた。
私は心臓が止まるかと思った。
震える手で取り出した。
広告だった。
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遺品。
私はその二文字を見た瞬間、広告を握り潰した。
誰が入れた。
誰が篠田さんの部屋に、遺品という言葉を入れた。
まだ生きている。 まだ篠田さんは生きている。 まだ彼ではない。 まだ遺品ではない。 まだ。
私は広告を破いた。
細かく。 細かく。 遺品という文字が読めなくなるまで。
そして、その破片をすべて持ち帰った。
捨ててはいけない。 捨てれば、どこかでまた繋がるかもしれない。 遺品という言葉が、篠田さんの部屋へ戻るかもしれない。
その夜、私は二通目の手紙を書いた。
篠田さんへ。 返事はいりません。 ただ、毎朝言ってください。 俺はここにいる。 俺はまだ俺だ。 俺は彼ではない。 声に出せないなら、口だけでもいいです。 口が動けば、まだ間に合います。
最後に一行だけ、赤いペンで書いた。
黙らないでください。
翌朝、その手紙を入れに行った。
三〇七号室の扉の前に、篠田さんが立っていた。
私を見ていた。
手には、私の一通目の手紙があった。
黄色い便箋は、ぐしゃぐしゃに握り潰されていた。
「水瀬さん」
篠田さんは言った。
声が震えていた。
「頼むから、もうやめてくれ」
私は、その言葉を聞きながら、なぜか安心していた。
水瀬さん。
まだ、私の名前を覚えていた。
コメント
1件
うわあああ…第九話、読み終わったよ…😭💦 「来ないでください」から始まる篠田さんの拒絶と、それでも手紙を書く水瀬さんの切実さが胸に刺さりすぎる…。「黙らないでください」の赤い文字、あれがもうね、叫びだよね。最後に「水瀬さん」って名前を呼ばれた瞬間、私も一緒に息を止めてた。まだ覚えてた、まだ繋がってる…って思えたのが、せつなくて温かかったです…🌸