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安心数学の日
朝の教室。
床には緑のライン、天井には心理波を検知する淡いランプ。
黒板の横に掛かる安心旗は、墨染めの布に緑丸がゆっくり明滅していた。
まひろは水色のパーカーに黄緑のショートパンツ。
ランドセルを机に置きながら、周りの空気をそっと窺っていた。
今日の授業は“安心数学”。
雨国崩落後に作られた新科目で、
大和数字(イチ・ニ・サン) と 算盤 を中心に学ぶ授業だ。
先生が入ってくる。
先生は灰色のジャケットにモカ色のチノパン。
胸元には“教育安心監査章”が光っている。
「はい、みなさん、おはようございます。
今日は“大和数字”と“安心算盤”の基本操作を学びます」
黒板にチョークでこう書いた。
イチ
ニ
サン
シ
その下に漢字の「一 二 三 四」が添えられる。
「ここ、大事です。
英数字は雨国崩落以降、統制外語とされました。
私たちは“安心のために”大和数字を使います」
クラス全員が声を揃える。
「安心のためです」
■ 算盤の扱い方
先生は算盤を持ち上げた。
玉の一部には翡翠核を模した緑の丸い飾りがついている。
「算盤は電子計算より安心を生むとされています。
指を動かす行為が“迷い”を消すんですね」
後ろの壁に貼られたポスターにはこう書かれている。
【電子計算=不安の入口】
【算盤=迷いミナシ】
■ 授業開始
問題がスクリーンに写る。
【問題1】
サン に イチ を たす。
まひろは算盤に指を置き、慎重に玉を弾く。
カチ……カチ……
「……ヨン、です」
「はい、正解。素晴らしいですね」
天井の緑ランプが「心理波安定」を示す光を放った。
■ 迷い
【問題2】
ヨン から ニ を ひく。
まひろは指を止め、ぽつりと呟いた。
「……ひくって、前は“マイナス”って言ってたような……」
隣の席の女子が首を傾げた。
「あれ? そんな言葉あったっけ?」
教室の緑ランプが小さく明滅した。
■ 先生の反応
先生は微笑んだまま言った。
「“マイナス”……懐かしい言葉ですね。
でもその言葉は、雨国崩落の前に使われていた危険語です。
不安を連想させるため、現在は使用されません」
「……じゃあ、ぼく……なんで覚えてるんだろ……」
その瞬間、まひろの端末が小さく振動した。
画面に表示された通知:
【言語最適化:旧表現の記憶修正を推奨します】
【安心語:ひく を使用してください】
■ 放課後の教室
チャイムが鳴り、生徒たちは帰り支度を始める。
窓の外には安心旗が揺れ、中央の緑丸がゆっくり明滅していた。
まひろは算盤を片付けながら、小さく呟いた。
「……マイナス……あったよね……たしかに……」
誰も返事をしない。
言葉は記憶より先に書き換えられる。
雨国崩落後の大和国では、それが“自然”だった。
■ 結末
——暗い地下室。
緑のフーディを羽織ったゼイドが、まひろの授業映像を見ていた。
算盤を弾く小さな指。
“マイナス”にひっかかり、困惑する表情。
ゼイドは低く言った。
「数字を変えるのは文化じゃない。
記憶に触れることだ」
緑の光がモニターを照らす。
「言葉を奪い、数を塗り替え、
“安心”が唯一の正解になる。
……それが大和国の数学だ」