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雨の夜だった。
玄関の灯りに照らされ、濡れた傘を閉じる影がひとつ。
雪斗は玄関の前で立ち尽くしていた。目の前の扉の向こうには、かつて「兄貴」と呼んだ男がいる。施設でいつも自分の前を歩いていた人間――彰。
「……久しぶりだな、雪斗」
扉が開く。
柔らかな灯りとともに、あの声が落ちてくる。
彰の笑みは変わらなかった。だがその奥に、壊れかけた静寂が揺れていた。
部屋に入ると、空気が重い。
ソファの革が鳴る音、時計の針の音。
それだけで、雪斗の呼吸は乱れた。施設の頃の“序列”が、身体に染みついたままだった。
「お前、よくここが分かったな」
「ニュースで見た。彰が教師になったって」
「……そうか。偉くなったもんだろ?」
彰は笑いながら、雪斗のコートを脱がせた。
濡れた布の感触が掌に絡む。その指の温度が、記憶を呼び起こす。
夜、布団をかけてくれた手。
叱られたあと、背中をさすってくれた手。
――けれど、その優しさはやがて命令の形をしていた。
「雪斗。今でも“彰”って呼ぶんだな」
「……嫌か?」
「いや。ただ――」
彰の声が低くなる。
距離が近づき、雪斗は息を詰めた。
肩に触れる掌が、逃げ場を塞ぐ。
あの頃と何も変わらない。触れられるたび、過去の影が背骨を這い上がる。
「もう“兄貴”って呼ばなくていい。俺たちはもう、子どもじゃない」
「……違うのに」
「違わないさ。俺は、ずっとお前を見てる」
声が優しい。
それが何より怖かった。
彰はいつも、壊す前に優しくなった。
「……彰」
「なあ、雪斗。俺、引き取られた先でずっと考えてた。お前を置いてきたことが、ずっと喉に刺さったままだ」
「もう、昔のことだ」
「そう思えたら、楽だった」
彰の笑みが崩れる。
握られた手に、力がこもる。皮膚がきしむほどに。
「離せよ」
「嫌だ。お前は俺のものだろ?」
「違う。俺は……」
雪斗の声が途切れる。
彰の手がその口を塞いだ。
掌の震えが伝わってくる。優しさの皮をかぶった支配。
その指先が、彼の人生を塗りつぶしてきた。
雨の音が遠のく。
二人の呼吸だけが、この部屋の現実だった。
「……雪斗」
「やめろ」
「“名前を呼ぶな”か?」
「そう言ったの、お前だろ。昔」
彰の唇が微かに歪んだ。
あの頃と同じ、壊れかけの笑い方だった。
「そうだな。呼ぶたびに、縛られる。呼ばなければ、忘れられる。……でもな、雪斗。俺はお前に呼ばれたい。誰にも届かないこの名前を、お前だけに呼んでほしい」
雪斗は目を伏せた。
彰の肩が小刻みに揺れている。
支配しているのは、もはやどちらでもなかった。
残ったのは、壊れた絆だけ。
「彰……」
名を呼ぶ。
その瞬間、彰の目から涙がこぼれた。
それは赦しではなく、終わりの合図だった。
「やめろ……それじゃ、俺が壊れる」
そう呟いて、彰は雪斗の肩に顔を埋めた。
静かな嗚咽が、長い夜を震わせる。
雪斗はその頭を見下ろしたまま、何も言わなかった。
優しさが狂気に変わる、その境界を、ただ見つめていた。
――誰も、正しくはなかった。
施設で始まった絆は、形を変えても互いを縛り続ける。
呼ぶことも、呼ばれないことも、罰のように痛かった。
そして雪斗は思った。
あの日、初めて「兄貴」と呼べなくなった瞬間から――
すべては、終わっていたのだと。