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比較的最近の、真昼のことだ。季節は夏ではなかったが、空気は夏のふりをしていた。
雲が薄く、光は真っすぐで、影は短いのに、どこか疲れていた。
私は郊外の工業団地の外れに立っていた。白い屋根の倉庫が並び、作業休止中の昼は音を出さない。
音のない場所で、光はよく働く。光が働きすぎると、人の目は怠ける。怠けた目にだけ、余計なものが見える。
目的地は、かつて植物工場だったという区画だった。
温室というには骨が太く、倉庫というには軽すぎる架構。
鋼のリブに、何千枚というガラスがはめ込まれ、いくつかは割れ、いくつかは曇り、いくつかは、ただ焼けていた。
焼ける、という言葉は、食べ物だけに使うべきではない。
ガラスも焼ける。
焼けたガラスは、透明のふりのまま硬度だけを増して、光を濃縮して返してくる。
返ってきた光は、目を通過して、頭の奥の柔らかい部分をゆっくり温める。
温められた頭は、記憶を溶かす。
溶けた記憶は、かたちが良い。
私は金網の切れ目から滑り込み、温室の外周を歩いた。
アスファルトは白っぽく、細かい骨材が太陽に焼けて匂いを出す。
焦げ砂糖と古タイヤの中間の匂い。気温計の数字では測れない温度。
足元で陽炎が低く漂い、靴の先の輪郭をゆっくりと噛む。
陽炎は、世界の端を柔らかくする。柔らかくなった端は、なくても気づかれない。
温室の扉は外れていた。
蝶番の跡が茶色く、金属の粉が指に移る。
内側の空気は乾いていて、湿度の欠片がどこかへ行ってしまった後の匂いがした。
乾いた熱は誠実だ。皮膚に直接くる。
湿った熱は、嘘が上手い。胃のあたりを通り過ぎるふりをして、背中に宿る。
中に入ると、光は細長い川になって床を流れていた。
割れていないガラスの列ごとに、帯の厚みが違う。
厚い帯は白く、薄い帯は黄ばみ、切れ目は灰色。
帯と帯の間に足を置くと、体温の影がつくられる。
影は短く、荒い。
荒い影は、写真に写らない。写らないものばかりが、いつも正しい。
遠くの骨組みが低く鳴った。
風ではない。金属が熱で伸びるときの声だ。
伸びる金属は、目で見るより先に耳でわかる。
耳でわかるものは、真実に近い。
近い、というだけで充分だ。
棚のような骨が一直線に奥へ消えていく。
そこにはかつて培地が並び、養液が循環し、葉が規則正しく揺れていたはずだ。
いま残っているのは、空のフレームと、焼けて変色したプラスチックの帯、そして、取り外し忘れた小さな計器。
計器の数字は消え、針だけがわずかに斜めのまま止まっている。
針が止まった角度は、嘘に向いた顔の角度に似ている。
私は歩いた。
靴底の合成樹脂が、熱で柔らかくなって音を変える。
自分の足音が少しも自分のものに聞こえない。
そんな場所では、他人の足音を容易に自分のせいにできる。
白いヘルメットがひとつ、棚の下に転がっていた。
ヘルメットの表面に、手のひらの脂がひとつ残っている。
指の向きは外へ向かい、親指はわずかに短い。
脂の縁が乾いて、白っぽく粉をふいていた。
私はそれに触れなかった。
触れると、温度が伝わるからだ。
温度が伝わると、ものは急に現実になる。
現実は、長く持てない。
光の帯はゆっくり移動している。
太陽の角度がほんのわずかに傾き、その傾きが、ここでは大きい。
帯の端がフレームの影に触れるたび、空気の音が変わる。
高い方へ、少しだけ。
高い音は、薄い。薄い音は、長い。
長い音だけが、不幸に似る。
私は中ほどで立ち止まり、ガラスを見上げた。
いくつかのガラスは、焼けて波打っている。
波は微細で、目の筋肉だけがそれに気づき、脳は気づきを追認しない。
追認されないものが、後で戻ってきて、寝入りばなに腕を引く。
引かれた腕は、どこにも続かない。
そのとき、外の舗装路に影が走った。
誰かがここに向かっている。
軍手の白、首に巻いたタオル、腰のポーチ。
昼休みが終わるのには早い時間。
早すぎる時間に人が来るとき、人は何かを忘れに来ている。
忘れに来た人は、よく見える。
彼は扉のところで立ち止まり、目を細め、眩しさに耐える顔をした。
目を細めると、人は自分の輪郭だけを信じ始める。
輪郭だけを信じると、背景は諦められる。
諦められた背景に、ものはよく消える。
私は動かなかった。
彼は中へ入ってきて、直進せず、右へ折れた。
折れるという選択は、ここでは珍しい。
真っすぐ進むと、光に焼かれる。
曲がると、影に当たる。
影に当たると、温度が戻る。
温度が戻ると、人は思い出す。
思い出した人は、危ない。
彼は棚の間を抜け、奥の計器の脇でしゃがみ、何かを探した。
探しものは、いつでも手の届くところにない。
届くところにあるなら、それは探しものではなく、忘れものだ。
彼が探しているのはどちらか。
私は彼の肩の角度だけで、それを判断しないことにした。
判断は、責任を連れてくる。
責任は、重い。
光の帯が、わずかに彼の背中をかすめた。
その瞬間、空気が一枚薄くなった。
薄さは、音に出る。
棚の骨が、ひとつ、長く鳴った。
その鳴りが、彼の呼吸と同期した。
同期は、合図だ。
合図は、誰でも受け取れる。
誰もが受け取れる合図は、誰のものでもない。
私は、彼が立ち上がるところを見た。
立ち上がりは、たいていの行為の始まりであり、終わりでもある。
終わりの立ち上がりは軽く、始まりの立ち上がりは重い。
彼のそれは、軽かった。
軽いのに、足音は重かった。
矛盾は、熱に似合う。
彼は、こちらを見たのかもしれない。
見なかったのかもしれない。
彼の目の瞳孔は、眩しさのせいで細く、向きは定まらない。
私は身動ぎもしなかった。
動かない観測者は、良い。
良すぎて、たまに対象を自分に寄せる。
光の帯がもう一度、彼の肩を舐めた。
帯は太く、今度は黄から白へ、白から無色へ。
無色は、光の最後の色だ。
最後の色は、熱だけを残す。
熱だけが残ると、ものの輪郭は内側から緩む。
緩んだ輪郭は、空気と同じ速度で、移動できる。
彼は、そこにいた。
いなかった。
いたときの靴の位置と、いなくなった後の靴跡の位置が、ほとんど同じだった。
ほとんど、という言葉は、嘘のための余白だ。
私は余白を愛する。
余白は、音をよく通す。
床には、黒でも茶でもない、焼けた無色の痕が残っていた。
無色の痕は、光の角度を変える。
角度が変わると、他の帯の厚みも変わる。
厚みの変わった帯が、ガラスの波と干渉して、空の色が数秒だけ褪せた。
褪せた空は、写真に向かない。
向かないものばかりが、ここにはある。
私は、彼のいた場所に近づいた。
熱は、まだ残っていた。
皮膚の表面に、微細な針が並ぶみたいな感覚。
その針は、内側から来る。
内側から来るものだけが、ほんとうだ。
私は掌をガラスに当てた。
高温ではない。
しかし、冷たくもない。
掌の脂が、わずかに曇りを作った。
曇りはすぐに消えた。
曇りが消えるスピードは、物語の温度だ。
この物語は、熱い。
金属の柱に、手の跡がひとつあった。
不自然な高さ、私の肩より少し上。
五本の指は均等で、親指の角度は外へ開いている。
跡は焦げではない。脂でもない。
“焼けた透明”だ。
透明が焼けるとき、人はそれを見ない。
見ないという行為は、見たという記録より強い。
外でサイレンが鳴った。
昼の終わりの合図。
音は、温室の中で薄くなり、骨の間をすり抜け、床へ落ちた。
落ちた音は、砂のように散って、消えた。
消えたものの数を、私は数えない。
数えると、誰かが足りなくなる。
私はヘルメットにもう一度目をやり、棚の下の影を覗いた。
そこには何もなかった。
なにもない、ということは、あった、ということの逆ではない。
なにもない、ということは、いまはない、ということだ。
いまはないものは、あとである。
あとであることに、私は関わらない。
出口に向かう途中、ガラスの一枚に自分の姿が映った。
輪郭が波でゆがみ、顔の一部が遅れてついてくる。
遅れてくる顔のほうが、表情は柔らかい。
柔らかいほうが、本当だと、誰が決めたのか。
私は決めない。
決めないで、書く。
書くと、やがて誰かが決める。
外へ出ると、光はまだ働いていた。
白い屋根は白すぎ、コンクリートは白く光り、空の青は青さをやめて白へ寄る。
白へ寄った世界では、影の価値が上がる。
価値の上がった影は、扱いづらい。
扱いづらいものだけが、記憶に残る。
私は金網をくぐり、舗装路に戻った。
靴底の樹脂がさっきより柔らかく、少しだけ薄くなっている。
薄くなった靴は、歩いた距離をよく覚える。
覚えているのは靴で、私ではない。
私は、忘れる。
忘れるために、書く。
水を飲んだ。
熱の匂いは、水では消えない。
舌の上で、砂のざらつきが数粒だけ残る。
数粒なら、捨てられる。
捨てると、軽くなる。
軽くなったものは、長く続く。
長く続くものだけが、罪に似る。
罪は、少し甘い。
甘いものは、白昼に溶けやすい。
私はここで筆を置く。
この独白に現れる場所も人物も、現実には存在しない。
ただ、真昼の光が働きすぎ、影が短く疲れ、ガラスが焼けて波打ち、誰かがそこにいて、いなくなり、床に“焼けた無色”がひとつ残ったという記憶だけが、まだ、冷めない。
冷めないうちは、ここには来ないほうがいい。
白昼は、夜より昏いことがある。
……眩しさに目を細めると、見えなくなるのは光じゃない。影のほうだよ、あんた。