TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

有栖川郁太郎の黙示録(モノローグ)

一覧ページ

「有栖川郁太郎の黙示録(モノローグ)」のメインビジュアル

有栖川郁太郎の黙示録(モノローグ)

8 - 第8話 白昼の昏さ

2025年08月16日

シェアするシェアする
報告する

比較的最近の、真昼のことだ。季節は夏ではなかったが、空気は夏のふりをしていた。

雲が薄く、光は真っすぐで、影は短いのに、どこか疲れていた。

私は郊外の工業団地の外れに立っていた。白い屋根の倉庫が並び、作業休止中の昼は音を出さない。

音のない場所で、光はよく働く。光が働きすぎると、人の目は怠ける。怠けた目にだけ、余計なものが見える。


目的地は、かつて植物工場だったという区画だった。

温室というには骨が太く、倉庫というには軽すぎる架構。

鋼のリブに、何千枚というガラスがはめ込まれ、いくつかは割れ、いくつかは曇り、いくつかは、ただ焼けていた。

焼ける、という言葉は、食べ物だけに使うべきではない。

ガラスも焼ける。

焼けたガラスは、透明のふりのまま硬度だけを増して、光を濃縮して返してくる。

返ってきた光は、目を通過して、頭の奥の柔らかい部分をゆっくり温める。

温められた頭は、記憶を溶かす。

溶けた記憶は、かたちが良い。


私は金網の切れ目から滑り込み、温室の外周を歩いた。

アスファルトは白っぽく、細かい骨材が太陽に焼けて匂いを出す。

焦げ砂糖と古タイヤの中間の匂い。気温計の数字では測れない温度。

足元で陽炎が低く漂い、靴の先の輪郭をゆっくりと噛む。

陽炎は、世界の端を柔らかくする。柔らかくなった端は、なくても気づかれない。


温室の扉は外れていた。

蝶番の跡が茶色く、金属の粉が指に移る。

内側の空気は乾いていて、湿度の欠片がどこかへ行ってしまった後の匂いがした。

乾いた熱は誠実だ。皮膚に直接くる。

湿った熱は、嘘が上手い。胃のあたりを通り過ぎるふりをして、背中に宿る。


中に入ると、光は細長い川になって床を流れていた。

割れていないガラスの列ごとに、帯の厚みが違う。

厚い帯は白く、薄い帯は黄ばみ、切れ目は灰色。

帯と帯の間に足を置くと、体温の影がつくられる。

影は短く、荒い。

荒い影は、写真に写らない。写らないものばかりが、いつも正しい。


遠くの骨組みが低く鳴った。

風ではない。金属が熱で伸びるときの声だ。

伸びる金属は、目で見るより先に耳でわかる。

耳でわかるものは、真実に近い。

近い、というだけで充分だ。


棚のような骨が一直線に奥へ消えていく。

そこにはかつて培地が並び、養液が循環し、葉が規則正しく揺れていたはずだ。

いま残っているのは、空のフレームと、焼けて変色したプラスチックの帯、そして、取り外し忘れた小さな計器。

計器の数字は消え、針だけがわずかに斜めのまま止まっている。

針が止まった角度は、嘘に向いた顔の角度に似ている。


私は歩いた。

靴底の合成樹脂が、熱で柔らかくなって音を変える。

自分の足音が少しも自分のものに聞こえない。

そんな場所では、他人の足音を容易に自分のせいにできる。


白いヘルメットがひとつ、棚の下に転がっていた。

ヘルメットの表面に、手のひらの脂がひとつ残っている。

指の向きは外へ向かい、親指はわずかに短い。

脂の縁が乾いて、白っぽく粉をふいていた。

私はそれに触れなかった。

触れると、温度が伝わるからだ。

温度が伝わると、ものは急に現実になる。

現実は、長く持てない。


光の帯はゆっくり移動している。

太陽の角度がほんのわずかに傾き、その傾きが、ここでは大きい。

帯の端がフレームの影に触れるたび、空気の音が変わる。

高い方へ、少しだけ。

高い音は、薄い。薄い音は、長い。

長い音だけが、不幸に似る。


私は中ほどで立ち止まり、ガラスを見上げた。

いくつかのガラスは、焼けて波打っている。

波は微細で、目の筋肉だけがそれに気づき、脳は気づきを追認しない。

追認されないものが、後で戻ってきて、寝入りばなに腕を引く。

引かれた腕は、どこにも続かない。


そのとき、外の舗装路に影が走った。

誰かがここに向かっている。

軍手の白、首に巻いたタオル、腰のポーチ。

昼休みが終わるのには早い時間。

早すぎる時間に人が来るとき、人は何かを忘れに来ている。

忘れに来た人は、よく見える。


彼は扉のところで立ち止まり、目を細め、眩しさに耐える顔をした。

目を細めると、人は自分の輪郭だけを信じ始める。

輪郭だけを信じると、背景は諦められる。

諦められた背景に、ものはよく消える。


私は動かなかった。

彼は中へ入ってきて、直進せず、右へ折れた。

折れるという選択は、ここでは珍しい。

真っすぐ進むと、光に焼かれる。

曲がると、影に当たる。

影に当たると、温度が戻る。

温度が戻ると、人は思い出す。

思い出した人は、危ない。


彼は棚の間を抜け、奥の計器の脇でしゃがみ、何かを探した。

探しものは、いつでも手の届くところにない。

届くところにあるなら、それは探しものではなく、忘れものだ。

彼が探しているのはどちらか。

私は彼の肩の角度だけで、それを判断しないことにした。

判断は、責任を連れてくる。

責任は、重い。


光の帯が、わずかに彼の背中をかすめた。

その瞬間、空気が一枚薄くなった。

薄さは、音に出る。

棚の骨が、ひとつ、長く鳴った。

その鳴りが、彼の呼吸と同期した。

同期は、合図だ。

合図は、誰でも受け取れる。

誰もが受け取れる合図は、誰のものでもない。


私は、彼が立ち上がるところを見た。

立ち上がりは、たいていの行為の始まりであり、終わりでもある。

終わりの立ち上がりは軽く、始まりの立ち上がりは重い。

彼のそれは、軽かった。

軽いのに、足音は重かった。

矛盾は、熱に似合う。


彼は、こちらを見たのかもしれない。

見なかったのかもしれない。

彼の目の瞳孔は、眩しさのせいで細く、向きは定まらない。

私は身動ぎもしなかった。

動かない観測者は、良い。

良すぎて、たまに対象を自分に寄せる。


光の帯がもう一度、彼の肩を舐めた。

帯は太く、今度は黄から白へ、白から無色へ。

無色は、光の最後の色だ。

最後の色は、熱だけを残す。

熱だけが残ると、ものの輪郭は内側から緩む。

緩んだ輪郭は、空気と同じ速度で、移動できる。


彼は、そこにいた。

いなかった。

いたときの靴の位置と、いなくなった後の靴跡の位置が、ほとんど同じだった。

ほとんど、という言葉は、嘘のための余白だ。

私は余白を愛する。

余白は、音をよく通す。


床には、黒でも茶でもない、焼けた無色の痕が残っていた。

無色の痕は、光の角度を変える。

角度が変わると、他の帯の厚みも変わる。

厚みの変わった帯が、ガラスの波と干渉して、空の色が数秒だけ褪せた。

褪せた空は、写真に向かない。

向かないものばかりが、ここにはある。


私は、彼のいた場所に近づいた。

熱は、まだ残っていた。

皮膚の表面に、微細な針が並ぶみたいな感覚。

その針は、内側から来る。

内側から来るものだけが、ほんとうだ。

私は掌をガラスに当てた。

高温ではない。

しかし、冷たくもない。

掌の脂が、わずかに曇りを作った。

曇りはすぐに消えた。

曇りが消えるスピードは、物語の温度だ。

この物語は、熱い。


金属の柱に、手の跡がひとつあった。

不自然な高さ、私の肩より少し上。

五本の指は均等で、親指の角度は外へ開いている。

跡は焦げではない。脂でもない。

“焼けた透明”だ。

透明が焼けるとき、人はそれを見ない。

見ないという行為は、見たという記録より強い。


外でサイレンが鳴った。

昼の終わりの合図。

音は、温室の中で薄くなり、骨の間をすり抜け、床へ落ちた。

落ちた音は、砂のように散って、消えた。

消えたものの数を、私は数えない。

数えると、誰かが足りなくなる。


私はヘルメットにもう一度目をやり、棚の下の影を覗いた。

そこには何もなかった。

なにもない、ということは、あった、ということの逆ではない。

なにもない、ということは、いまはない、ということだ。

いまはないものは、あとである。

あとであることに、私は関わらない。


出口に向かう途中、ガラスの一枚に自分の姿が映った。

輪郭が波でゆがみ、顔の一部が遅れてついてくる。

遅れてくる顔のほうが、表情は柔らかい。

柔らかいほうが、本当だと、誰が決めたのか。

私は決めない。

決めないで、書く。

書くと、やがて誰かが決める。


外へ出ると、光はまだ働いていた。

白い屋根は白すぎ、コンクリートは白く光り、空の青は青さをやめて白へ寄る。

白へ寄った世界では、影の価値が上がる。

価値の上がった影は、扱いづらい。

扱いづらいものだけが、記憶に残る。


私は金網をくぐり、舗装路に戻った。

靴底の樹脂がさっきより柔らかく、少しだけ薄くなっている。

薄くなった靴は、歩いた距離をよく覚える。

覚えているのは靴で、私ではない。

私は、忘れる。

忘れるために、書く。


水を飲んだ。

熱の匂いは、水では消えない。

舌の上で、砂のざらつきが数粒だけ残る。

数粒なら、捨てられる。

捨てると、軽くなる。

軽くなったものは、長く続く。

長く続くものだけが、罪に似る。

罪は、少し甘い。

甘いものは、白昼に溶けやすい。


私はここで筆を置く。

この独白に現れる場所も人物も、現実には存在しない。

ただ、真昼の光が働きすぎ、影が短く疲れ、ガラスが焼けて波打ち、誰かがそこにいて、いなくなり、床に“焼けた無色”がひとつ残ったという記憶だけが、まだ、冷めない。

冷めないうちは、ここには来ないほうがいい。

白昼は、夜より昏いことがある。


……眩しさに目を細めると、見えなくなるのは光じゃない。影のほうだよ、あんた。

有栖川郁太郎の黙示録(モノローグ)

作品ページ作品ページ
次の話を読む

この作品はいかがでしたか?

0

コメント

0

👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚