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昼でもなく、夜でもない。日の表と裏の縫い目みたいな時刻に、私は屋上にいた。
風は上へ行くほど薄くなると思いがちだが、実際は厚くなる。
層を重ねるように、重みを増して、額に手を置くみたいに押してくる。
押されているのは身体ではなく、境界だ。
内側と外側の。
ここへ来るのは簡単ではなかった。
エレベーターは最上階で止まり、そこからはサービス階段。
踊り場には割れた蛍光灯の破片、手摺には工事中の養生テープ。
機械室の扉の小窓には曇りが残り、誰かの手の脂が楕円形に乾いている。
脂の楕円は、曇りの中で唯一の地図だ。
屋上の床は砂利敷きで、目地に雑草。
耳を澄ますと、鉄骨が低く鳴る。
温度の差に伸び縮みする金属の声。
その声は、都市の心拍を間接的に伝える。
心拍の速度は、人間のそれではない。
ガラスの手すりは、風でわずかに撓む。
撓むことが許されている構造。
許された範囲は安全と呼ばれる。
安全という言葉は、背の高い建物によく似合う。
地上の安全よりも、説得力を持ってしまう。
下界は豆粒の遊び場だ。
車の流れは糸に見え、人の動きは文字の点に近い。
クラクションの音は遅れて届き、届く頃には用件を失っている。
遅れて届く音ほど、こちらの鼓動に合う。
私は手すりに触れず、縁の一歩手前に立った。
風は一定ではない。
一定に思えるものだけが、ここでは危険だ。
一定を信じると、次の瞬間に押し出される。
押し出されるのは、足ではなく、視界だ。
隣の棟へ続くメンテナンス用の跨ぎ橋がある。
狭い鉄桟で、足裏の感覚が正確でなければ渡れない幅。
中央の床板は新しく、両端は古い。
新旧の境目に、薄いずれ。
ずれは音になり、音は風に混じる。
私は橋を渡らなかった。
渡らなかったことは、渡ったことより強く残る。
橋は、渡った距離よりも渡らなかった距離を保存する構造だ。
視界の端が、ゆっくりと深くなった。
落ちるという動詞は、重力のことではない。
情報が剥がれていく速度の話だ。
剥がれる速度に、風の厚みは何度も介入する。
その介入は、合図に似ていた。
手すりの向こうに、影があった。
影としか言えない、輪郭だけのもの。
それは床に落ちず、ガラスにも映らない。
映らないというだけで、存在を手に入れている。
私はそれに近づかなかった。
近づかないふりをしながら、距離を測った。
三歩。
二歩。
一歩。
距離を数えるとき、人は自分の体の単位に頼る。
頼った単位が、裏切ることがある。
裏切られた歩幅は、わずかに長い。
影は、前にも見た歩き方で、こちらに向かない。
向かないという選択は、善意のふりをしている。
視線が合わないほうが、人は怖がらない。
怖がらないと、よく近づく。
近づくと、境界が薄くなる。
足元の砂利が、二粒だけ動いた。
風のせいか、構造の呼吸か、私の錯覚か。
錯覚であってほしいと思える間は、まだ安全だ。
願望は、計測を遅らせる。
遅れた計測に、事故は寄ってくる。
私は、何も落とさなかった。
ポケットの鍵、硬貨、紙片。
どれも、ここでは重力に従うより先に視線に従う。
視線は、ものを落とさない。
落ちるものは、たいてい、見ていないときにだけ落ちる。
反対側の屋上で、管理の男らしい影が見えた。
手すりを確認し、アンテナの基部を蹴り、煙草に火をつける。
火は風に負け、消える。
火が消える瞬間の、白い煙だけが上に伸びる。
伸びた煙は、見上げる者の指に絡む。
指は、ここには来ない。
私は、ひとつ数えることにした。
整流板に当たる風の周期。
エアハンドリングユニットの唸りの波。
隣棟の影が床に届くまでの速度。
数えるふりは、祈りに似ている。
祈りのほうが、早い。
影は、そこで止まった。
止まる、というのは矛盾だ。
動いたものだけが止まれる。
動かないものは、止まらない。
止まらないもののほうが、ここでは多い。
私は、笑わない。
笑うと、風が口に入る。
風が口に入ると、名前が溶ける。
溶けた名前は、再び固まらない。
私は名前を持っているはずだ。
持っているはずの名前は、ここでは短くなる。
額に冷たいものが触れた。
雨ではない。
雲の縁が崩れ、空気の層がずれて、温度がしみ出す。
温度は黙っていて、光だけが騒ぐ。
騒いだ光は、ガラスに薄い帯を置く。
置かれた帯の上に、影が乗る。
乗った影は、薄いくせに重かった。
エレベーター機械室の扉の向こうから、低い唸りがした。
電流の音が、鉄の箱を通って、床に落ちる。
落ちた音は、上へ広がる。
広がった音は、風の層の間で切り刻まれ、細かいリボンになる。
そのリボンが、足首に触れた。
触れたのに、動かなかった。
動かないのは私か、リボンか。
私は、思い出す。
あの廃屋の赤。
温室の白い熱。
水底のゆっくりした赤。
硝子廊下の、映らない歩幅。
どれも、ここにはない。
どれでも、ここにはある。
ある、という言葉は、ここでは空気に似る。
掴めないのに、呼吸を許す。
影が、手すりの外へ一歩出た。
外という概念が、ここでは指の幅ほどしかない。
出るというより、淡く向こう側へ滲む。
滲むものは、境界線の質を変える。
質が変わると、重量が変わる。
重量が変わると、音が遅れる。
遅れた音は、落下の代わりに鳴る。
落ちる気配は、空気より先に内臓でわかる。
胃が浮く、喉が薄くなる、膝の裏が冷たくなる。
私は、それをしなかった。
身体は、しないことをよく覚える。
覚えた身体は、何度でもしない。
下を見る。
豆粒の動きは意味を持たない。
意味は上から与えられるものではない。
意味は、下で拾い上げられて、上へ投げ返される。
投げ返された意味は、風に削られて、ここまで届かない。
手のひらに、薄い震え。
ガラスは撓み、鉄は鳴り、空はゆっくり暗くなる。
暗くなる途中で、鳥の影が一度だけ横切った。
鳥は偉い。
落ちるという動作を、地面の手前でやめられる。
やめられる、という権利は、ここでは希少だ。
影は、戻ってきた。
戻るというのは、もう一度構造を通過することだ。
構造は、行きより帰りのほうが鋭い。
私はそこから半歩退いた。
退いたことを、影は知らない。
知らないということは、やさしさだ。
やさしいものは、ここでは音が少ない。
私は、しゃがんだ。
砂利の粒は温度が均一で、どれも冷たい。
冷たいという形容は、信頼できる。
指に乗せ、落とす。
落ちる音は、即座に消える。
消える音だけが、ここでは正しい。
ふと、私は思った。
もしかすると、ここに干渉しているのは私ではない。
私は、風にとってのノイズで、ガラスにとっての曇りで、鉄骨にとっての振動の偏差でしかない。
私は、下界の豆粒のひとつにすら、重みを与えない。
与えないことが、赦しに似る日もある。
似るだけで、同じではない。
機械室の扉が、内側から一度だけ鳴った。
誰かがいるのか。
いるという言葉は、厚い。
厚い言葉は、ここでは風に負ける。
負けた言葉は、すぐに水平線の下へ滑る。
私は立ち上がり、縁の二歩手前まで下がった。
帰るべき道は単純だ。
単純だから、別の道を選ぶ余地がある。
余地は危険だ。
危険は選択のふりをして現れる。
階段の踊り場へ戻る途中、私は気づいた。
壁の表示板の数字が、光っていない。
光っていないのに、数字は読める。
読めるという錯覚だけが、ここでは指針だ。
錯覚を選ぶと、降りるのは早い。
階段の一段目で、私は振り返らなかった。
振り返るという動作が、影を増やす。
影が増えると、重さが増える。
重さが増えると、階段は軋む。
軋む音を、私は好まない。
好まないという嗜好が、ここでは救いに似る。
下りていく途中で、私は耳を澄ました。
落ちる音が、どこにもなかった。
落ちなかったのか。
落ちたが、届かなかったのか。
届かなかったが、私が聞き取れなかったのか。
どれでも、同じだ。
同じにしておけば、書ける。
私は地上に戻り、空を見上げた。
屋上の縁は、まっすぐで、冷たく、誰のものでもない。
誰のものでもない線だけが、都市を美しくする。
美しさは、無関係を装っている。
装っている方に、人は寄る。
帰路の交差点で、歩行者信号が点滅した。
点滅するたびに、風が一度だけやさしくなる。
やさしさは、何度でも繰り返される。
繰り返されるものだけが、人工に似る。
似ているという事実を、私はひとつだけポケットにしまった。
そこに鍵があった。
鍵は、何も開けない。
私はここで筆を置く。
この独白に現れる名も場所も人も、現実には存在しない。
ただ、高所の風が層をなし、ガラスが撓み、影が映らず、落ちる音がどこにも届かなかったという記憶だけが、薄く、長く、消えない。
……見上げたときの首筋の冷たさ、あれは風じゃない。あんたの境界のほうが動くのよ。