夜の闇が山里を包む頃、綺羅は小道を歩いていた。
前日の蝶の墳での経験が、まだ胸の奥で揺れている。理性で解決したはずの事件だったが、あの光の蝶と人型の神の影は、夢にまで現れるほど鮮烈だった。
谷を抜けると、見知らぬ町が姿を現した。霧が低く垂れ込め、街灯は赤く揺れている。町の入り口には、古い木製の門があり、「黄泉の市」と書かれた赤い提灯が揺れていた。村人たちが恐れを抱く場所だと直感で分かる。
「黄泉の市……」
綺羅は小声でつぶやく。伝承によれば、黄泉の市は生者と死者が交錯する場所。死者の魂がさまよい、人型の怪異が現れると噂されていた。だが、旅人として、理で解けぬ謎はないと少女は信じていた。
市の中に足を踏み入れると、異様な光景が広がった。通りには露店が並ぶが、商品は人形のように無表情の小さな霊魂や、羽根や光を帯びた奇妙な生き物ばかりだ。人々の姿も少し異質で、瞳が銀色に光る者や、影だけが人型になって動く者が混じっている。
突然、通りの中央で、女性の悲鳴が響いた。
「助けて……!」
綺羅は短剣を握り、音の方へ駆け寄る。そこには、霊魂に絡め取られた少女が立っていた。周囲の人型の怪異たちは無言で見守るだけだ。
「落ち着いて! 理を立てれば解ける」
綺羅は声をかけ、目の前に広がる現象を観察する。霊魂は黒い煙のような姿で蠢き、触れれば冷たい風が肌を刺す。だが、彼女は恐怖に押し潰されることはなかった。
その時、背後で微かに風が渦を巻くような音がした。
振り返ると、皓が立っていた。
白衣の裾が夜の闇の中で揺れ、黒髪は月光を受けて青白く光る。
「また君か、綺羅」
彼の声は低く、しかしどこか温かみを含んでいる。
「皓……!」
少女は思わず心が跳ねるのを感じた。前回の蝶の墳での彼の静かな観察と微笑みが、脳裏に浮かぶ。だが、今は事件が優先だ。
霊魂は人型の形を取り、少女を取り囲む。怪異の目は銀色に光り、意志を持つかのように動く。綺羅は短剣を握り、冷静に思考を巡らせる。
「この霊魂は、未練や後悔に縛られている……その感情を解けば解放できる」
少女は通りに並ぶ露店の霊魂を見渡し、順序立てて推理する。どの霊魂が元の生者で、どの霊魂が影の存在なのか。彼女の理性が光を放つ。
「……感情の鎖を解けば、霊は静まる」
指先で空中の光を触れるようにして、霊魂の結び目をひとつずつ解く。すると、黒い煙は徐々に薄くなり、少女の体から離れ、夜空へと吸い込まれていった。
だが、最後の霊魂は人型の神の姿を模して立ちはだかった。光を帯び、長い髪と白衣、そして冷たい銀の瞳――間違いなく皓の力を宿しているかのようだ。
「最後の試練だな」
皓は穏やかに微笑み、声だけで少女を試す。
「君の推理力と感情を操る力、どちらが強いか、見せてもらおう」
綺羅は短剣を腰に差し、深呼吸した。
「理と感情の両方で、この迷宮を解く!」
霊魂は光の蝶のように舞い、少女を惑わせる。しかし、彼女は冷静に分析し、手順を一つずつ組み立てる。感情の色、光の揺れ、霊魂の動き、空間の歪み――全てを理で読み解く。
時間が経つにつれ、霊魂は光に包まれ、静かに消えていった。黄泉の市には再び静寂が訪れる。
綺羅は息を整え、ふと皓を見る。彼は影の中に立ち、微かに笑みを浮かべていた。
「君は、いつも理を失わない」
その一言に、少女の胸は高鳴った。恐怖を超えた尊敬と、確かに芽生えた恋心が混ざる。
夜が深くなり、黄泉の市の霧が徐々に晴れると、綺羅は再び旅を続ける決意を固めた。
「私は、この力で真実を追いかける」
皓は静かに背後から彼女を見守り、風に溶けるように姿を消した。
彼の存在は遠くても、心の奥では確かに感じられる。
少女は胸の奥に芽生えた感情を押さえつつ、黄泉の市を後にした。
その夜、月は低く垂れ、谷間に銀の光を落とす。
綺羅は短剣を握りしめ、静かに歩く。
“これからも、私の旅は続く――そしていつか、あの神の正体も、心も、理解する日が来るかもしれない”
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