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山を越え、谷を抜けると、綺羅は古びた宿に辿り着いた。木造の建物は風に軋み、屋根の瓦はところどころ崩れている。だが、そこだけは不思議と温かい光に包まれ、周囲の荒れた山道と対照的だった。宿の名は「風神の宿」と書かれた古い木札が掲げられている。
「……ここが風神の宿か」
綺羅は息を整え、荷物を肩にかけながら石段を上った。旅の途中で立ち寄る宿としては風変わりだ。何より、周囲の木々が、まるで人のように揺れるのだ。風が強いのか、それとも…と、少女は眉をひそめる。
宿の中に入ると、空気が微かに震えた。障子の向こうから、柔らかい風が渦を巻くように吹き込む。すると、障子の影から一人の人物が現れた。背は高く、長い黒髪が肩にかかり、白い衣を風にたなびかせている。
「……皓?」
少女は一瞬心が跳ねた。だが、彼ではない。眉の角度、瞳の色が微かに異なる。だがその姿には、誰もが息を呑むほどの神秘的な色気が漂っていた。
「ようこそ、綺羅」
低く、けれど優しい声が耳に届く。
「私がこの宿を守る、風神だ」
風神は両手を軽く広げ、周囲の空気を揺らすと、宿の中に小さな竜巻が舞った。紙片やちり、微かな光の粒子が空中で渦を巻く。その力強さと美しさに、綺羅は息を呑む。
「……事件ですか?」
少女は短剣を握り、理性で心を落ち着けようとした。
「うむ。ここ数日、宿に立ち寄った者が風にさらわれ、意識を失うという怪現象が続いている。君の力を借りたい」
風神の声は柔らかいが、緊張感を孕んでいる。
綺羅は頷き、周囲の気流や風の流れを観察した。壁や床から微かな振動が伝わる。風の粒子が、不規則に渦を巻き、形を変えるたびに冷たい空気が肌を刺す。
「……この風は、自然現象ではない。意思を持っている」
少女は推理を口にする。風神は微かに笑み、軽く手を振った。すると、風の粒子が一つに集まり、人型の影のように形を作る。
「これが犯人の正体だ」
風の怪異は透明に近い銀色で、顔の輪郭や手足がかすかに浮かび上がる。人型怪異だ。綺羅は心を落ち着け、頭の中で論理を組み立てる。
「影を誘導し、渦の中心を外す。風の流れを乱さずに意識を奪う力を弱める」
彼女は短剣を掲げ、風神の指示を仰ぎながら慎重に怪異の動きを読み取る。風の渦は強く、少女の体を押す。だが、理性で流れを理解することで、風に振り回されることなく行動できた。
「もう少しだ」
風神は微笑みながら、空中で軽く手を振る。少女の意識と力が集中する。怪異は徐々に形を崩し、渦も弱まっていく。そして最後に、怪異は小さな風の塊となり、静かに消えた。
綺羅は息を整え、床に手をついて立ち上がる。風神はゆっくりと彼女に近づいた。
「見事だった、綺羅」
彼の瞳は灰銀色で、微かに色気を帯びる。
「君の頭脳は、ただの人間のものではない。理と感情を同時に操る力がある」
少女はわずかに頬を赤らめたが、言葉を返す。
「私はただ、理を使って正しいことをしただけです」
風神はにやりと微笑み、肩を軽く叩いた。その瞬間、手の温かさが綺羅の心に触れ、思わず息が詰まる。風神はすぐに距離を取ったが、少女の心は静かに揺れた。
「……人型の神や怪異と関わるたびに、心の揺れも増す」
綺羅は自分の心の中を見つめる。皓との微かな恋心に加え、風神の色気や優しさが心をかき乱す。理性で抑えようとしても、感情が勝る瞬間がある。
夜が更け、風神は宿を後にした。
「また会おう、綺羅」
その声は風に乗り、夜空に溶けていく。
少女は一人、宿の縁側に座り、月光に照らされる山々を眺めた。
「旅は続く……。そして、私はもっと強くなる」
胸の奥には、事件解決の達成感が満ちているだけで、なぜか心が少しざわつく気もする――けれど、それが恋心なのかどうかは、まだ綺羅にはよく分からなかった。