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最初は、ただの冗談だった。
「なあ、日下部ってさ、意外とノリいいよな〜」
「昨日も掃除手伝ってくれたしなー。なあ?」
「ほんとほんと、律儀っていうか……ちょっとMっぽいっていうか?」
笑いが起こる。
日下部は無言だった。
掃除のロッカーに向かって歩こうとしたその瞬間、誰かに背中を軽く叩かれる。
「ほら、背筋伸びてないよー?」
また笑い声。
──けれどその笑いの“温度”が、明らかに変わっていた。
ロッカーの前で、モップを手にした男子がひとり。
「なあ、これ、持ってくんない? 俺、腰やっててさ〜」
渡されたのは、びしょ濡れのモップ。
柄の部分には黒ずんだ汚れがこびりついていて、
持った瞬間、シャツに水が跳ねた。
「うわ、やっべ、汚れた。……ま、似合ってんじゃね?」
「ていうかさ、思ったんだけど──日下部、意外と“下僕キャラ”いけるよね?」
「“上等な飼い犬”って感じ」
「ほら、遥っていう“メスいぬ”いるし、バランスよくね?」
遥の背中が強張る。
言葉は発せられない。
教室の空気が、一歩ずつ崩れていくのがわかる。
「ていうか、どっちが“攻め”なの?」
誰かが言った。
冗談のように。
──でも、それは冗談の皮をかぶった“確認”だった。
「おまえら、夜もそうなん?」
「えー、日下部が押してるとこ見たくない? 意外と積極的だったりして」
「ねえ、“喘ぎ声”どっちが大きいか、賭けようぜ」
女子の声が混じる。
もう誰も、「これは言いすぎだ」とは言わなかった。
日下部は、無表情のまま立っていた。
けれど、その手がほんの一瞬、震えた。
「ねえ、“やめてください”って言ってみて?」
「ちゃんと敬語で、“そんなことされたら困ります”ってさ」
「言ってくれたら、やめてあげるかもよ〜?」
囲むようにして立つ男子たち。
後方では、女子たちがスマホを構え、笑っていた。
日下部の表情は、ほとんど動かない。
それが、彼らには“肯定”に見えた。
「じゃ、言えよ」
「なに? 恥ずかしいの?」
──そのときだった。
「やめろ」
教室の隅から、小さな声が落ちた。
遥だった。
机の端を握ったまま、立ち上がろうともせずに、ただ呟いた。
けれど──その声に、誰も反応しなかった。
「なに? 聞こえない。はっきり言えよ、メスいぬの番犬くん」
「こいつ、マジで泣くの? 泣いたらご褒美じゃね?」
日下部の肩が、ぴくりと動いた。
もう、逃げ道はなかった。
笑われているのではない。
笑いながら──見下されている。
遥の視線が、微かに揺れる。
(……俺が、引き込んだ)
(“汚したくない”と思ってたのに)
──だが、その痛みが何よりも、今の遥を黙らせた。
立ち上がれない。
助けられない。
触れようとすれば、その手の温度ごと相手を壊すことがわかっている。
だから、立てなかった。
そして──教室の笑い声の中で、
蓮司は一人、教卓の前に肘をついて、
飽きもせず、くすくすと笑っていた。
「……で、“泣き顔”は誰が撮る?」
その一言が、すべてを決定づけた。