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それから数日後のある日の会議
企画開発部のメンバー全員が揃う中、尊さんはいつものように鋭い眼光で資料を睨んでいた。
張り詰めた空気が会議室を満たし、皆が息を潜めて彼の次の言葉を待つ。
「……雪白、このデータだが、なぜ最新の市場調査結果が反映されていない?」
尊さんの低い声が響き渡り、自分の名前を呼ばれて相も変わらずビクッとする。
俺は慌てて資料を確認するが、確かに指示された最新データが抜けていることに気づいた。
心臓が跳ね上がり、背中に冷や汗が伝う。
「もっ申し訳ありません主任!すぐに修正します!」
俺は勢いよく頭を下げた。周囲の同僚たちは「また始まった」「かわいそうに」とヒソヒソと話している。
(聞こえてるってば…っ)
「次からは、提出前に最終確認を怠るな。特に重要なデータだ、気をつけろ」
「はいっ!」
俺は背筋を伸ばし、力強く返事をした。
声のトーンは低いままだが、尊さんに怒鳴りつけるような響きはない。
ただ淡々と、しかし厳しく注意を促しただけだった。
そんな尊さんに同期のみんなは拍子抜けしたように顔を見合わせる。
他の同僚たちは「優しい……?あの主任が?」と、いまだに信じられないといった表情で俺のことを見つめてくる。
その日の昼休み──…
「にしてもお前さー、よくあんな鬼上司に媚び諂えるよな」
自販機前の休憩スペースで缶コーヒーを開けながら、同期の鈴木がそう言った。
「こ、媚びる?俺が主任に…?」
「いっつも主任の顔色うかがって、おべんちゃら言って、どーせあれだろ?機嫌損ねて叱られないよう必死なんだろ?」
俺は反応に困り、視線を宙にさまよわせた。
確かに、尊さんは厳しいし辛辣だけど
媚びを売るなんてことは意識したことすらなかった。
ただ自分がミスしやすくて、それで尊さんにカバーしてもらうことが多いから
一人前になって認められたくて、褒めて欲しくて邁進してきた。
「べ、別に機嫌取るためにやってるわけじゃないよ!主任、ちゃんとしたこと言ってるし…主任にはいつも助けてもらってばかりだし……ちゃんと仕事で返したいって思ってるだけだよ」
反論してもなお
「ま、鬼上司に媚売って仕事もらえるならいーんじゃね?」
カラカラ笑う鈴木から視線を逸らしたそのとき。
「俺がいないところじゃ、そんな風に雪白をいじめてたわけか」
突然、後ろから声が降りかかった。
「主任!」
俺は慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「お疲れ様です!」
鈴木は慌てた様子で
「いじめてなんかないっすよ」
と愛想笑いをした。
「鈴木、お前が仕事サボって喫煙所に屯ってんのも、雪白に仕事押し付けてんのも知ってるんだがな。それでも言い逃れする気か?」
尊さんは鋭い目で鈴木を見据える。
「いやっ、それは~……っ」
鈴木は口ごもり、視線を泳がせた。
俺はそんな彼を見て、胸が痛むのを感じた。
鈴木がサボっているのは薄々気づいていたけど、指摘するのは怖かった。
でも、尊さんが代わりに言ってくれたことにホッとした気持ちもある。
自分はいつも失敗ばかりで何もできないから。
「自分の仕事は自分でやるんだ。分かったな?」
尊さんが鈴木を冷たく一瞥し、そのまま去っていく。
鈴木はバツが悪そうな顔をして「わかりましたよ」と呟くと、そそくさと去っていった。
「雪白、大丈夫か?」
尊さんが振り返って言う。
「は、はい!主任のおかげで助かりました…ありがとうございます」
「お前の上司として当然のことだ。それより雪白、少し話せるか」
そうして、昼職がてら以前行った定食屋に入って昼食を共に摂ることになった。
俺は生姜焼き定食、尊さんはヒレカツ定食を。
お互いに箸を進めながら
尊さんが
「早速本題に入るが」と、口を開いた。
俺が生姜焼きとご飯を口の中に掻き込み、水をゴクッゴクッと飲んでから首を傾げると
尊さんは半分ほどになったヒレカツをつつきながら言葉を続けた。
「お前、褒美の件、LINEで伝えるとか言ったきりなんも言ってこないが、なにもいらないってことでいいのか?」
その言葉にハッとする。
そうだった。
仕事で忙しかったり、尊さんが俺をケーキとして求めてくれたことが嬉しくて
頭の中からご褒美のことがすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。
「実はその、なかなか決めれなくて…っ」
「SMがどうとか言ってたろ」
「それはそうなんですけど…」
「今日までに決めなかったら時効としてご褒美はナシな」
「そ、そんな?!」
「そんなに難しいことを言ってるつもりはないんだがな」
「うぅ……」
尊さんはそう言うが……尊さんとしたいことがありすぎてひとつに絞れず、どう答えればいいのか悩む。
「ご褒美が決まるまでここを出ないからな」
俺は慌てて箸を置き、「ちょ、ちょっと考えさせてください!」と叫んだ。
「5秒で決めろ」
「…じゃ、じゃあやっぱりSMとかじゃなくて、尊さんと…その…っ」
「なんだよ」
「えっと……」
俺は尊さんの顔をじっと見つめる。
「尊さんのこともっと教えて欲しいです……」
「俺のこと?」
「はい、その…どっかデートしに行って、尊さんの好みとかもっと知りたくて」
「……それでいいのか?」
「尊さんがよければ……」
「……まあ俺は構わないが」
「ほんとですかっ?!」
「ああ」
尊さんはコクリと頷くと、残ったヒレカツ定食を口の中に掻き込んでいく。
ご褒美とは言えどもデートできるなんて……嬉しすぎて思わずニヤけてしまう。
「いつ空いてますか…?」
「次の日曜は予定がない。雪白は」
「あ、俺もですっ!……じゃあ尊さんのお休みに合わせます!」
「決まりな。時間無くなるし早く食え」
「あっはい!」
俺は慌てて残りの生姜焼き定食を平らげる。
そして店を出て、会社へと戻る道中。
「で?どこ行きたいんだ?」
「え?」
「デートだよ。どっか行きたいとこあるんじゃないのか」
「あっえっと…尊さんは行ってみたいところとかないんですか?」
「俺がか?あるにはあるが…」
「じゃあそこがいいです!」
「美術館とか、退屈になるとこだがいいのか?」
「楽しそうですし尊さんが行ってみたいところがいいんです!」
「ふっ、そうか…わかった」
尊さんはそう言って笑みを浮かべた。
その笑顔があまりにも眩しくて胸が高鳴る。
そしてそれから数日後──
俺は益々仕事に精が出るようになり、今まで以上に頑張って取り組んでいた。
そして迎えた日曜日──
待ちに待った尊さんとのデートの日である。
約束の時間より30分ほど早く着いてしまったが、尊さんを待たせるよりはずっといいだろう。
待ち合わせ場所に着くと既に尊さんが立っていた。
俺を見ると軽く手を挙げて
「早いな」
と声をかけてきた。
「尊さんこそ…!」
尊さんの格好は、黒のシャツにデニムというシンプルな格好。
何を着ていても、それが尊さんというだけでドキッとする。
尊さんはそんな俺の視線に気付いたのか
「どうした?」と尋ねてくる。
「な、なんでもないです!」
俺は誤魔化すようにそう答えた。
「そうか。じゃあ行くぞ」
尊さんはそう言って歩き出す。
その後ろ姿を追いかけながら思った。
◆◇◆◇
そうして尊さんが連れてきてくれたのは、上野の森に佇む国立西洋美術館だった。
重厚な石造りの建物は、どこか歴史を感じさせ、期待に胸が膨らむ。
パリのルーブル美術館のような威厳と
それでいて日本の風景に溶け込むような落ち着きを併せ持っているように見えた。
その堂々たる佇まいは、まるで長い時を超えてきた芸術の殿堂そのものだ。
ロダンの「考える人」が迎えてくれる前庭も、すでに芸術作品のようだった。
筋肉の隆起や、深く刻まれた思考の痕跡までが
石膏とは思えないほどの生命感を放っている。
その重厚な存在感に、美術館に入る前からすでに圧倒されていた。
「何気に美術館って初めて来たかもしれません……!」
エントランスをくぐり、その荘厳な雰囲気に圧倒されながら、俺は小さく声を上げた。
高い天井、静かに響く足音
そして壁を飾る絵画や彫刻が放つ独特のオーラ。
美術館という空間が持つ、神聖とも言える空気に俺の心は一瞬で引き込まれた。
「そうなのか?」
尊さんは少し意外そうな顔で俺を見た。
その表情には、俺の反応が新鮮に映ったような微かな好奇心が見て取れた。
「はい……!なかなか美術館に行く機会ってなかったので。でも、ここ、すごく歴史を感じて素敵ですね!」
正直、美術館は自分には縁遠い場所だと思っていた。
もっと堅苦しい、退屈な場所だと勝手に思い込んでいたのだ。
だが、実際に足を踏み入れてみると、そこは想像を遥かに超える魅力に満ちていた。
石造りの壁から伝わるひんやりとした空気
そして何世紀も前の人々の息吹が今も残っているかのような重厚感。
そのすべてが、俺の好奇心を刺激した。
「雪白はこういうの興味あるのか?」
尊さんの問いに、俺は少し照れながらも素直に答えた。
「えっと…はい」
「昔から絵画とか外国の偉人に興味あって。特に印象派の画家とか、色彩豊かな作品が好きなんです」
幼い頃、図鑑で見たモネやルノワールの絵画に、漠然とした憧れを抱いていたことを思い出す。
光の粒が踊るような筆致
鮮やかな色彩が織りなす風景は子供心にも「なんて綺麗なんだろう」と強く印象付けられた。
素直に答えると、尊さんは少し驚いたような顔をした。
「へぇ。意外だな。もっとこう……アニメとかゲームとかそういうのが好きなのかと思ってた」
その表情は、「意外な一面を見た」というような、どこか面白がるような色を帯びていた。
「アニメもゲームも好きですけどね……でも絵画って芸術的で凄く綺麗だし魅力的じゃないですか」
俺は付け加える。
確かにアニメもゲームも大好きだ。
だが、それとは違う、もっと根源的な美しさが絵画にはある。
一枚のキャンバスに込められた画家の情熱や、時代を超えて語りかけるメッセージに
俺はいつも心を揺さぶられてきた。
「特に、国立西洋美術館はモネの『睡蓮』があるって聞いていたので、いつか見てみたいと思ってたんですよね」
そう告げると、尊さんは満足そうに頷いた。
「まあ、そうだな。俺もたまに来るけど、この建物自体が世界遺産だからな。それだけでも見る価値はある」
尊さんの言葉に、この美術館が持つ歴史的価値の重さを改めて感じた。
ただの美術品を展示する場所ではなく、建物そのものが人類の遺産なのだ。
私たちはゆっくりと歩きながら、受付へと向かう。
尊さんの隣を歩く足取りは、美術館の静謐な空気に合わせて、自然と穏やかになっていた。
「尊さんは1番好きな絵画とかあるんです?」
ふと、気になって尋ねてみた。
尊さんの芸術に対する深い造詣は、いつも俺を驚かせる。
「俺は……モネの睡蓮かな。あの色彩感覚には毎度圧巻される。光の捉え方が本当に素晴らしい」
尊さんの答えに、俺は思わず顔を輝かせた。
「俺もモネは好きですよ。なんというか…あの睡蓮を見ると心が洗われる気がします」
まさか尊さんも同じだとは
共通の好きなものがあることに、俺は密かに喜びを感じた。
あの絵が持つ、静かで
それでいて力強い癒しの力は、言葉では表現しがたいものがある。
そんな会話をしながら受付を済ませて、いよいよ館内を散策していく。
展示されている作品はどれも素晴らしくて、俺の目はきらきらと輝いていたに違いない。
一つ一つに込められたメッセージや、描かれた時代の背景を想像しながら
ずっと見ていられるような気がした。
ルネサンス期の荘厳な宗教画、バロック期の劇的な光と影
そしてロココ期の優雅な装飾画。
それぞれの時代が持つ美意識が、キャンバスの上で鮮やかに息づいている。
解説パネルを読み込み、画家の人生や作品にまつわるエピソードを知るたびに
絵画がただの絵ではなく、生きた物語として俺の心に語りかけてくるようだった。
その後も俺たちはゆっくりと展示室を巡り
ルノワールの柔らかな筆致
セザンヌの力強い構成
ゴッホの燃えるような色彩……
教科書や画集でしか見たことのなかった名画が、目の前で息づいている。
筆の跡、絵の具の盛り上がり
キャンバスの質感までが、鮮明に俺の視界に飛び込んできた。
それは、印刷物では決して味わえない絵画が持つ生の迫力だった。
俺は一点一点、食い入るように見つめ、時折
「わぁ……」と小さな感嘆の声を漏らしていた。
まるで子供のように、目の前の光景に純粋な驚きと感動を覚えている自分がいた。
尊さんはそんな俺の様子を、時折横目で見ては、満足そうに微笑んでいるように見えた。
その優しい眼差しが、俺の感動をさらに深めてくれる。
特に印象派のエリアに差し掛かると、俺の瞳は一層輝きを増した。
モネ、ルノワール、ドガ、シスレー……
彼らが捉えた光の移ろいや空気感が閉じ込められたような絵画の数々に
俺はすっかり魅了されていた。
朝焼けの柔らかな光、午後のまばゆい日差し
夕暮れの切ない色合い。
画家たちが一瞬の光を永遠に留めようとした情熱が、ひしひしと伝わってくる。
「尊さん、この光の表現…」
俺が指差す先には、陽光が降り注ぐ風景が描かれていた。
木々の葉の間からこぼれる光の粒
水面に反射するきらめき、そして影の中に潜む色彩。
それらすべてが、まるで目の前で実際に輝いているかのようにリアルだった。
尊さんも頷きながら、俺の隣でじっと絵を見つめる。
彼の視線もまた、絵の細部にまで注がれているのが分かった。