そして、ついにその絵の前に辿り着いた。
壁一面に広がる、淡い色彩の連なり。
それは、まるで水面そのものが目の前にあるかのような錯覚を覚えるほどだった。
水面に浮かぶ睡蓮が、光の加減で様々な表情を見せる。
朝露に濡れたような瑞々しさ
午後の陽光を浴びて輝く生命力
そして夕暮れ時に静かに佇む幻想的な姿。
そのすべてが、キャンバスの上で息づいていた。
モネの「睡蓮」だった。
俺は息を呑んだ。
その瞬間、周囲の喧騒が遠のき
世界がこの一枚の絵の中に閉じ込められたようだった。
画面から放たれる静謐な美しさに、心が洗われるような感覚に包まれる。
水面の揺らぎ、光の反射
そして睡蓮の葉一枚一枚に宿る生命力。
それらすべてが、俺の五感を刺激し
深い感動を呼び起こした。
尊さんもまた、言葉もなくその絵を見つめていた。
彼の横顔は、俺と同じように
この絵が持つ圧倒的な美しさに心を奪われているようだった。
「どうだ? やっぱり、いいだろ」
尊さんが優しい声で尋ねた。
その声は、俺の感動を確かめるかのように、そっと響いた。
俺は何度も頷き、震える声で答える。
「はい……!言葉にならないくらい、綺麗です…」
本当に、言葉では表現しきれないほどの感動だった。
胸の奥から込み上げてくる熱いものが、瞳に潤みとなって現れる。
「水面の揺らぎとか、光の反射とか、全部が生きているみたいで……こんなに感動するなんて、思ってもみませんでした」
「だろうな、俺も初めて見た時はそうだった。何度見ても、新しい発見がある」
尊さんはそう言って、俺の肩にそっと手を置いた。
その言葉が、俺の感動をさらに深める。
この絵は、見るたびに違う表情を見せてくれる
まさに生きた芸術なのだと。
俺たちはしばらくの間、その場を動かず
「睡蓮」が織りなす光と影の世界に浸っていた。
時間という概念が消え失せ、ただただ目の前の美しさに身を委ねる。
美術館の静寂の中で、絵画と向き合う時間は何よりも贅沢なものに感じられた。
それは、日々の喧騒から離れ
純粋に美を享受できる、かけがえのない瞬間だった。
「尊さん、連れてきてくれて、本当にありがとうございます。今、凄く楽しいです」
俺は絵から目を離し、尊さんを見上げた。
その瞳は感謝の気持ちでいっぱいの、澄んだ輝きを放っていたと思う。
尊さんの顔には、俺の喜びが伝わったかのような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「そりゃなによりだ」
尊さんは少し照れたように笑った。
その笑顔は、いつもより少しだけ優しく、俺の心に温かい光を灯してくれた。
その後も、俺たちは他の展示室を巡り
中世の宗教画から近代の彫刻まで、様々な時代の芸術に触れた。
尊さんが時折、作品の背景や画家のエピソードを教えてくれることもあり
俺は一層興味を深めていった。
彼の知識の深さにはいつも驚かされるが、そのおかげで
ただ絵を見るだけでなく、その裏にある物語や歴史を感じることができた。
美術館での時間はあっという間に過ぎ、気づけば閉館時間が近づいていた。
名残惜しさを感じながらも、俺の心は満たされていた。
そうして美術館を堪能したあと──
「尊さん、これからどこ行くんですか?」
「プラネタリウムだ」
「プラネタリウム?尊さん星座好きなんですか?」
「まあな」
尊さんはそう言いながら歩き出す。
尊さんが選んだプラネタリウムは、最近出来たばかりの施設だった。
中に入るとチケット売り場に長蛇の列ができており、その光景を見て少し驚く。
「すごい人ですね……」
「だな」
ちらりと横を見れば、尊さんは少し眉を寄せながらもどこか楽しげで
まるで“人混みも含めて計算済み”みたいな落ち着きでチケット列を見ていた。
(こんなとこも…ちゃんと調べてくれてたのかな……)
並ぶ人たちのざわめきの中、自然と尊さんのすぐそばに立つ。
「……事前に予約してある。並ばなくていい」
そう言ってスマホを取り出すと、チケット確認用の画面をさっと提示して
係員の案内に従ってスムーズに中へと進んでいく。
(……やっぱり、すごいな……)
俺のための“準備”を、何でもないふうにしてくれる人。
それが、尊さんなのだ。
照明の落ちたドーム型のホールに入ると、外の喧騒が一気に遠くなり
まるで別世界に足を踏み入れたような静寂に包まれる。
座席に案内されたかと思うと、そこはペアシートになっていて
「こっちの方が星見やすいだろ」
尊さんの言葉にぎこちなく頷き、促されるようにシートの半分に体を沈ませると
ふかふかとしたシートが体をすっぽりと包み込んだ。
すぐに尊さんも横に腰を下ろした。
肩が触れ、ふたりの距離はさらに近くなった。
互いの体温を感じる距離感に
さっきまで美術館で穏やかだった心臓が再び暴れ出した。
(こんな近くに……)
プログラムがスタートし、ドームいっぱいに星空が広がる。
司会の声と共に物語が始まり、夏の夜空が描かれていく。
星座のエピソードや星雲の映像が流れると、自然と心が穏やかになっていった。
尊さんの横顔をそっと窺うと
薄暗い空間の中でさえわかるほど端正なラインが浮かんでいる。
普段は真剣な顔をしているけれど、こうしてリラックスしていると
どこか無防備で、まるで寝顔のようにも見えて
――その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……あれ、見えるか」
急に隣から声が聞こえて、思わず飛び上がりそうになる。
「えっ……あっ…あれ、ですか?」
「あれが冬の大三角形。シリウス、プロキオン、ベテルギウス。……一番明るいのがシリウスな」
尊さんが天井の星を指さし、少しだけ顔を寄せてくる。
その近さに呼吸が乱れる。
「は……はい……」
「……あの」
「なんだ?」
「尊さん、こういうの詳しいんですね」
「昔から興味があったんだ。プラネタリウムは小さい頃によく父と来てたしな」
「へぇ……!なんか、意外です」
「そうか?」
「はい、勝手な偏見ですけど…尊さんってクールですし「星なんか見てなにかメリットでもあるのか」とか言ってきそうなイメージあったので」
「…お前は俺をなんだと思ってんだよ」
「す、すみません」
慌てて口元を手でおさえる。
尊さんは小さく苦笑して、もう一度天井の星を見上げる。
「星座ってのは物語があって面白いだろ。それに星の配置や動きには法則性があって規則正しい。こういうのにハマるのこそ俺らしいだろ」
「た、確かに……?」
「まぁ何より、綺麗なものはなんでも好きだ」
「……なんか、尊さんって結構ロマンチストですよね」
「まあ、な」
そんなやり取りに自然と頬が緩んだ。
それと同時にふと、よく耳にする
「冬の大三角形」が気になって尊さんに聞いてみることにした。
「あの……冬の大三角形ってよく聞きますけど、あれもなんか良い言い伝えとかあるんですか?」
「……あぁ。雪白もギリシャ神話は聞いたことぐらいあるだろ?」
「オリュンポス12神とか……オルフェウスの竪琴とか……?」
「だな。冬の大三角のオリオンもギリシャ神話の物語に関わっていて、オリオンってのはギリシャ神話に出てくる強い狩人でな」
「狩人、ですか…?」
「ああ、非常に強かったらしいが──自惚れすぎてサソリに刺されたり、想い人に誤って射られたりして命を落としたといわれている。」
「な、なんか皮肉ですね…」
「まあな、その後に星座となって空に昇ったみたいだからな」
「なるほど…えっとじゃあ、その隣でやけに輝いてる星…さっきシリウスって言ってましたよね。あれもなにかあるんですか?」
「あれはおおいぬ座の主星だ。神話では、オリオンに忠実だった猟犬がモデルだと言われている。冬の夜空を永遠に駆けている、ともな」
「え?さっきの話と別の話になってませんか?」
「まあな。神話ってのは複雑怪奇なもんが多いんだよ」
「ほえぇ…」
「ちなみに、シリウスって名前はギリシャ語の【セイリオス】に由来していて…【焼き焦がす者】っていう意味でな、それが英語読みで【シリウス】になったんだ」
「なんか凄いですね……そんなに昔から名前が決まってたなんて…」
「そういうことだ、古くから存在する一般的な信仰や伝承によれば古来より光っている星は人の魂だとも言われているからな」
「それは、事実ではないってことですか?」
「あぁ、逆に天文学的な事実をひとつ挙げるとしたら…オリオンとシリウスは今でも一緒に輝いているってことだ」
「へえ……なんか、素敵な関係ですね」
「ああ。だから人気のある星座だ」
(確かに……)
プラネタリウムが終わり、シアタールームから出る。
外に出ると、時刻は4時すぎ。
冬の日差しはまだ柔らかく、街全体を優しく照らしていた。
でも少し肌寒い
その寒さに腕を抱きしめ寒さに震えていると
「ここらに行きつけのカフェがあるからそこ入るぞ」
そう言って尊さんは颯爽と歩き出す。
その背中はいつものように頼もしく、それでいてどこか楽しげに見えた。
彼の少し早足なペースに合わせるように、俺は一歩遅れてついていく。
街の喧騒が少しずつ遠ざかり、細い路地へと曲がると
ふわりと甘く香ばしいコーヒーの匂いが漂ってきた。
尊さんに連れられるまま歩いて数分。
そこにあったのは、煉瓦造りのこじんまりとした小さなカフェだった。
蔦が絡まるエントランスには手書きの可愛らしい看板が立てられており
温かみのある灯りが窓から漏れている。
まるで絵本に出てくるような
隠れ家のような雰囲気に、俺は思わず足を止めて見上げてしまった。
ドアを開けると、カランコロンと軽快な鈴の音が鳴り響いた。
店内に一歩足を踏み入れると
焙煎された豆の香りと、焼きたてのパンの甘い香りが混じり合い
心地よい空間が広がっていた。
アンティーク調の家具と
壁に飾られた素朴な絵画が、この店の歴史を物語っているようだった。
奥のカウンターから顔を上げた店主らしき女性が、ぱっと表情を明るくして声を上げた。
「いらっしゃいませ……あら!尊ちゃんじゃない!おひさ〜!!」
「久しぶり」
尊ちゃんって呼ばれてるんだ…。
その響きが、いつもの凛々しい尊さんからは想像もつかないほど可愛らしくて
不意に笑みがこぼれてしまう。
尊さんはというと、普段のクールな表情とは打って変わって
少しだけ頬を染めて恥ずかしそうにしている。
その様子がまた、俺の心をくすぐった。
「あら?可愛い男の子連れて……前から言ってた部下の子かしら?」
女性の視線が俺へと向けられる。
俺は慌てて会釈をしようとしたが、尊さんの次の言葉に動きが止まった。
「あぁ、コイツは会社の…」
尊さんは言いかけたところで言葉を濁し、一呼吸置いてから、チラッと俺の目を見て
「いや、俺の恋人だ」と言ってくれた。
その言葉は、店内に響く鈴の音よりもずっと俺の心に強く響いた。
驚きと、それ以上に込み上げてくる嬉しさに、俺の頬は一気に熱くなる。
心臓がドクドクと高鳴り、全身の血が沸騰したかのように熱くなった。
「あらやだほんと?!」
その店主であろう女性の驚いた声が、静かな店内に大きく響き渡った。
彼女は目を丸くして、尊さんと俺を交互に見つめている。
「ちょっ、尊さん!いいんですか…?」
俺は思わず尊さんの袖を引いて小声で尋ねた。
こんな公衆の面前で、しかも尊さんの知り合いの前で
まさか「恋人」だと言われるとは夢にも思っていなかったからだ。
「事実を言ってるだけだ。それにここは会社じゃないんだ、気にするな」
尊さんは涼しい顔でそう言い放つ。
その堂々とした態度に、俺はさらに顔を赤くした。
「で、でも……」
言葉に詰まる俺をよそに、女性は尊さんの肩をバシバシと叩き始めた。
「あの尊ちゃんがついに恋人ねぇ、しかもこんな可愛い子捕まえて!」
その声には、からかいと同時に、心からの喜びが込められているように聞こえた。
尊さんは頭を抱えながらも、どこか楽しそうに笑っている。
その表情は、会社で見せる厳しい主任の顔とは全く違う
幼馴染にしか見せないような素の表情だった。
「私は尊ちゃんの幼なじみの浅霧よ、あなたはなんていうのかしら?」
「あっ、ゆ、雪白恋っていいます…!尊さんにはいつもお世話になってて……」
俺はどもりながらも、なんとか自己紹介を済ませた。
浅霧さんはにこやかに微笑み、俺の手を取ってぶんぶんと振った。
「恋ちゃんね!よろしく、恋ちゃん!」
「は、はい!よろしくお願いします……!」
それからというものの、浅霧さんはずっと恋ちゃん恋ちゃんと連呼していた。
俺は恥ずかしさで顔から火が出そうだったが
浅霧さんの底抜けに明るい人柄と
尊さんとの親しげなやり取りを見ていると、自然と心が和んでいった。
──────
───…
心地よいジャズが流れる店内。
温かいコーヒーを飲みながら、浅霧さんと尊さん、そして俺の会話は弾んだ。
浅霧さんは、尊さんの学生時代のやんちゃなエピソードを次々と披露し
その度に尊さんは「おい、やめろ」と照れくさそうに制止していた。
俺はそんな尊さんの普段見られない一面に、新鮮な驚きと喜びを感じていた。
「えー、じゃあ二人とも会社じゃ部下と上司ってわけ?別に社内恋愛禁止じゃないでしょーに」
浅霧さんが、ふと疑問を投げかけた。
尊さんはカップをテーブルに置き、少し真剣な表情で答える。
「……コイツはケーキで、俺はフォークだ。関係がバレれば変な噂が立ってもおかしくないだろ」