「実は、俺も早くに両親を亡くしたんだ。そして五歳上の姉も君と同じように特に海外の絵本が好きでね、語学を学んで翻訳家になるのが夢だった」
お姉さんが私と同じ……。
そうか。だから聡一朗さんは絵本作家に詳しかったんだな。
「だが姉は自分よりも俺の将来を期待してくれてね、自分の夢を捨てて俺の進学を優先させてくれたんだ。君と同じように大学に行くのを諦め、働いて得た収入を俺に注いでくれた。その甲斐あって俺は留学までできて、今こうしていられているんだ」
そうか、聡一朗さんが言う共感とはそういうことだったんだ。
私の背景が自分と特にお姉さんと重なった。
だから助けてくれたんだ……。
「けれども、君の意欲を感じて、すぐに共感じゃ応援に変わったんだよ。君は夢を捨てていない。独学でも勉強しようとしている。その強さに感心したんだよ」
「そうだったんですね……。でも私なんて全然強くないんです。臆病だっただけ。「無理、私じゃ頑張れない」って。両親が残してくれた財産をちゃんと活用して夢を実現できる自信がなかったんです。私からすれば、聡一朗さんの方がずっとすごいです。努力を重ねて、こうして世界でも著名な教授になられたんですから」
「そんなことはない。なにもかも姉がいてくれたおかげだ」
聡一朗さんはどこか遠い目をして、視線を下に向けた。
なにか不味いことを言ってしまったかな、と不安になって、私は弾んだ声で続けた。
「お姉さんは、今の聡一朗さんの立派な姿を見て喜んでいらっしゃるんでしょうね」
「……だと、いいんだがな」
聡一朗さんの意味深な言葉に、私は返答に詰まった。
代わりに聡一朗さんが続けた。
「姉は数年前に亡くなったんだ。まだ俺も駆け出しの頃でね、恩返しをする暇もなかったよ」
いつもは冷静で無表情に見える顔に明らかな悲しみの影が差していた。
ああ、ヴェールの正体はこれだったんだな――そう瞬時に私は納得する。
聡一朗さんの心を覆い隠すようなヴェールは、誰よりも恩があるお姉さんを失ってしまった悔しさと悲しさだったんだ。
過去を思い出すように遠くを見つめる瞳は、お姉さんを想っている。
でもそこに懐かしさや感謝の念はない。
ただ、悲しい色に染まっているだけ――。
不意に、驚くほど突然に、私の目からほろりと一粒涙がこぼれた。
「……ごめんなさい」
次から次へと溢れてくる涙を抑えることが出来なくて、私は隠すように頭を下げた。
私に泣く資格なんかない。
大切な人を失った悲しみは、失った当人にしか解らないのに。
でもそう考えたら、余計に涙が止まらなくなった。
おかしいな。両親が死んだ時さんざん泣いて、涙腺はもう壊れてしまったと思っていたのに。
泣き続ける私の肩に、聡一朗さんの手が優しく触れた。
「すまない、ご両親のことを思い出させてしまったね」
私は必死でかぶりをふる。
「違うんです、ごめんなさい、そうじゃないんです……」
「俺は姉を失ってからもう何年も経つ。でも君はまだ時の癒しが効いていないだろう?」
「違うんです……」
たしかに両親のことを思い出した。
でももうそうすぐに涙は出ることはない。時の癒しは効いていた。
いっぱい泣いて泣いて、たくさんの周りの人に縋って、悲しみはほとんど出し尽くすことができた。
今の涙の理由はそれじゃない。
今にも泣き出したそうな聡一朗さんの瞳が、あまりにも辛そうに寂しそうに見える。
だから思ったのだ――時が効いていないのは聡一朗さんの方じゃないか、って。
聡一朗さんはきっと、お姉さんに恩を返せなかった自責の念から、人に縋るのを拒んでしまったんじゃないか。
涙を流すのを堪えてしまったんじゃないかって。
そんな聡一朗さんの押し潰されそうな苦しみを想像して、胸が引き裂かれそうになったから。
だから涙が止まらないのだ。
けどそんなこと図々しく言えない。
私が今聡一朗さんに伝えられるのは、お姉さんのおかげで聡一朗さんはとても頼もしく優しい人になれたということ。
涙を振り切るように、私は笑顔を向けた。
「今の聡一朗さんの姿を見て、お姉さんはきっと幸せに思っていますよ。だって聡一朗さんは私を救ってくださったんですから。お姉さんが聡一朗さんを支えたように」
聡一朗さんは目を見開いた。
あ……っ、今の言葉生意気だったかな……!?
「ありがとう」
でも聡一朗さんはやさしく微笑んでくれた。
それは、初めて目にした、笑顔と言っていい聡一朗さんの表情だった。
とても穏やかで優しい笑顔。
恐れ多くも、私は望んでしまった。
もっとずっと、この微笑を見ていられたらいいのに、って。
事務所に戻った私の心はなんだかふわふわしていた。
温かい気持ちと切ない気持ち。
ふたつの気持ちが胸をいっぱいにしていて、おかしな高揚感があった。
聡一朗さんの過去を教えてもらって、驚いたのかもしれない。
お姉さんか。
私は一人っ子だから、姉弟がいる感覚がよく解からない。
お姉さんって、どんな方だったんだろう。
きっと聡一朗さんに似て聡明で綺麗な方だったんだろうな。
聡一朗さんとは、どんなふうに触れ合っていたのだろう。
あの冷静で隙のない感じの聡一朗さんが弟かぁ。
そんな感じはしないけれど、お姉さんといる時は少しだけ砕けたり、冗談を言ったりしたのかな。
なんていろいろ想像していたら、聡一朗さんが初めて見せてくれた微笑を急に思い出して、ドキリとなった。
お姉さんが亡くなる前は、あんなふうに笑ったりしていたのかな……。
聡一朗さんと別れてから事務所に戻った今も、ずっとそんなことばかりを考えていた。
私の頭の中は、聡一朗さんのことでいっぱいだった。
もっと会いたい。
もっとお話ししたい。
もっともっと、聡一朗さんのことが知りたい。
「どうしたの? ぼーっとして?」
「え!? あ、いえ!」
ぼんやりしていたら、急に話しかけられて飛び上がった。
チーフが話しかけてきた。
「帰って来たところかい? ならちょうどよかった。ちょっと話があるんだ」
「なんでしょう?」
忙しいチーフがわざわざ話すことといえば、仕事の話しかない。
どこか嫌な予感を覚えつつ、続きを待った。
「実は大正学院大学との契約だが、今月末で切れることになっている。なんで君の次の派遣先は――」
え?
その先の言葉なんて、頭に入ってこなかった。
大学に行かなくなる……。
もう聡一朗さんに会えなくなる……。
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