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承知いたしました。 冷たくなった彼女の横で、崩れ落ちるように始まった第2話。 彼女という「毒」を失い、皮肉にも「健康」を取り戻してしまった優斗の、空虚で残酷な数年間を書き上げます。
彼女が死んでから、僕の心臓はやけに元気に脈を打つようになった。
皮肉なものだ。ルナという捕食者に命を啜られていた頃の僕は、いつも死人のような顔をしていた。階段を一段上るだけで肺が焼け付くように痛み、視界には常に黒い砂嵐が混じっていた。 それがどうだ。彼女が冷たい「物」に成り果てたあの朝を境に、僕の身体からは倦怠感が消え失せた。吸い取られていた精気が、彼女の命そのものと混ざり合って逆流してきたのだ。
朝、目覚めるたびに、指先まで血が巡っているのを感じる。 鏡を覗けば、そこには血色のいい、健康そうな男が立っている。 その瑞々しい肌を見るたびに、僕は吐き気を感じた。この血の赤さは、彼女が流した「命」の色なのだ。
「……ごめんね、なんて。勝手すぎるだろ、ルナ」
あの日、彼女の身体は朝日を浴びて、静かに、そして残酷なほど美しく透けて消えていった。 後に残されたのは、僕の安物のシーツと、彼女が握りしめていた僕のスマートフォン。 そして、彼女が付けていた漆黒の小さなツノの、片方だけだった。
警察を呼ぶことも、誰かに相談することもできなかった。 「夢魔(サキュバス)が僕の部屋で死んだ」なんて、どこの狂人の戯言だ。 僕はただ、彼女が消えた場所を何度も指でなぞり、そこに残ったわずかな「冷たさ」を記憶に刻みつけることしかできなかった。
それからの数年間、僕の世界から「色」が消えた。
大学を卒業し、適当なIT企業に就職した。 仕事は忙しく、周囲からは「タフで仕事ができるやつ」だと重宝された。当然だ。僕の身体には、彼女が最期に遺した強大な生命力が溢れている。徹夜をしても、食事を抜いても、僕の身体は壊れることを拒絶した。
だが、僕の心は、あの日から一歩も動いていない。
同僚に飲みに誘われても、適当な理由をつけて断った。 街で誰かに声をかけられても、その瞳に「琥珀色」を探しては絶望した。 夜、ベッドに入るとき、僕は祈るように瞼を閉じる。
(また、あの遊園地へ行かせてくれ) (そこで、僕の命を全部持っていってくれ)
けれど、夢は二度と僕を「ログイン」させてはくれなかった。 目を閉じれば、そこにあるのはただの暗闇だ。 スマホのアプリはとっくにサービスを終了し、アイコンはグレーアウトしている。 「未読」のまま残された僕の叫びのようなメッセージは、もう、世界のどこにも届かない。
ある日の仕事帰り。 雨に濡れたアスファルトが、夜の街灯を反射して光っていた。 ふと見上げた雑居ビルの大型ビジョンに、古ぼけたメリーゴーランドの映像が流れた。 ただのCM。ただの演出。 それなのに、僕の足は縫い付けられたように止まった。
喉の奥が熱くなり、視界が滲む。 「健康な僕」が、通行人の邪魔にならないように歩道の隅へ寄る。 傘を叩く雨音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……寒いよ、ルナ」
独り言は、雨の音に消された。 彼女がいない世界は、こんなにも酸素に満ちていて、それでいて、息ができないほど冷たかった。
――そんな僕の「止まった時間」が、再び動き出したのは、彼女の三回忌さえ過ぎた、ある春の日のことだった。
取引先との打ち合わせに向かう途中、僕は駅の雑踏の中で、その「音」を聞いた。
「――あ、ごめんなさい!」
誰かと肩がぶつかる。 よくある光景。よくある謝罪。 けれど、その声の響きに、僕の全細胞が総毛立った。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。 リクルートスーツを着た、どこにでもいる就活生。 彼女にはツノも、羽も、尻尾もない。桃色の髪でもなければ、僕を知る琥珀色の瞳でもない。
けれど、彼女が慌てて拾い上げた手帳から、一枚の栞(しおり)が滑り落ちた。 それは、かつて彼女が夢の中で大好きだと言っていた、夜の遊園地のチケットに似た、古風なデザインの栞。
「……あの、大丈夫ですか?」
彼女が不思議そうに僕を見上げる。 その瞳に、僕の姿は映っていない。記憶の欠片すら、そこにはない。
けれど、彼女と指先が触れた瞬間。 数年間、僕を苦しめていたあの「健康な体温」が、彼女の指を通じて、懐かしい熱へと変わった気がした。
「……いえ。大丈夫です。……ただ、少し」
僕は、震える声で言葉を絞り出した。
「……少しだけ、懐かしい気がしただけです」
彼女はきょとんとして、それから、困ったように、でも――あの日と同じ角度で、少しだけ首をかしげて笑った。
「変ですね。私も……あなたに会ったら、『ただいま』って言わなきゃいけないような、そんな気がしたんです」
春の風が、二人の間を吹き抜ける。 未読無視のまま終わったはずの一夜が、今、現実(ひかり)の中で、新しい一ページをめくろうとしていた。
(完)