テラーノベル
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教会の書庫を出る前、神父が一つの引き出しを開けた。
「これは……個人的なものですが」
ためらいがあった。
「婚約の折に、整理されたものです」
それ以上は言わなかった。
私は受け取った。
薄い冊子だった。
革は柔らかく、使い込まれている。
頁を開く。
文字は整っていない。
ところどころ、途切れている。
私は読み始めた。
⸻
【記録】
(頁の端に日付があるが、滲んで判読しにくい)
———
水の音がする。
夜になると、近くなる。
———
夢を見た。
石が濡れていた。
滑る。
———
誰かが呼んでいる。
私の名前だったと思う。
違うかもしれない。
———
手を、見た。
私の手ではない気がする。
———
落ちたのは、誰だったか。
———
川。
———
(同じ言葉が、何度か繰り返されている)
———
返して
———
(ここで筆跡が乱れている)
———
違う
違う
———
覚えていない
———
(以下、空白)
⸻
私は頁を閉じた。
指先に、紙の冷たさが残っている。
言葉は、どれも短い。
だが、どこにも終わりがない。
「……本人のものです」
神父が静かに言った。
私はうなずいた。
ホームズは、手に取らなかった。
ただ、表紙を一度見ただけだった。
私はもう一度、冊子に目を落とした。
“返して”
その言葉だけが、妙に残っている。
川の音が、遠くから聞こえていた。
それは先ほどと同じはずだった。
だが、同じには聞こえなかった。
私は何も言わなかった。
ホームズも、何も言わなかった。
静けさの中で、
頁の重みだけが、わずかに増しているように感じられた。
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すかいお~あ@毎日投稿&猫化?
けだま15号🍓🐾໊