テラーノベル
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橘靖竜
丘は低く、風が渡っていた。草が擦れ、音が細く続く。
羊は遠くに散っている。
その向こうで、川が光っていた。
老人は石に腰を下ろしていた。
杖を両手で支え、動かない。
ホームズは少し離れて立った。
私はその隣にいた。
「歌のことだ」
ホームズが言った。
老人はうなずいた。
「今のは、短い」
それだけ言う。
「昔は、もう一つあった」
風が強くなった。
草が一斉に倒れる。
私は口を開いた。
「どのような——」
老人は首を振った。
「言葉は、変わる」
しばらく沈黙があった。
川の音が、下から上がってくる。
「娘がな」
老人が言った。
「いた」
それ以上は続かなかった。
私は待った。
「名は……あった」
間が落ちる。
「カースティ、と呼ばれていた」
初めて、名が出た。
だが、重さはなかった。
ただの音のように、置かれる。
「だがな」
老人は川の方を見た。
「名は、残らん」
風が止んだ。
音が消える。
「落ちると」
短い言葉。
「水に入ると」
さらに短くなる。
「持っていかれる」
何を、とは言わない。
「声も」
「名も」
「そのまま、流れる」
私は言葉を探したが、見つからなかった。
「誰も、呼ばなくなる」
老人の声は低かった。
「呼べなくなるのかもしれん」
訂正のように、付け加えた。
ホームズは何も言わなかった。
ただ、わずかに視線を動かした。
川は変わらず流れている。
何も起きていないように見える。
「だから」
老人が最後に言った。
「返す」
それだけだった。
私は顔を上げた。
意味は分からなかった。
だが、その言葉だけが残った。
風が戻る。
草が揺れる。
川の音が、また続き始めた。
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