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羽海汐遠
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レイ
230
第16算話 そろばんの先生
そろばん教室の午後は、いつも少しだけ乾いている。
木の机。
珠をはじく音。
紙の匂い。
子どもたちの小さな息づかい。
その全部が重なっても、教室の中には妙な静けさが残る。
数字の前では、誰も少しだけ素直になるからだろうと、ローリエは前まで思っていた。
けれど今は少し違う。
珠が鳴るたび、
その向こうにあるものまで想像してしまう。
並び。
処理順。
重さ。
途中で切るか、最後まで流すか。
ただ答えを出すための音だったはずなのに、今ではそのひとつひとつに別の気配がある。
先生は前の机の横に立ち、子どもたちの指先を順番に見ていた。
「そこで急がない」
その声は大きくない。
でも、珠の音より先に手を止める力がある。
「五珠のあと、下を戻す」
指摘は短い。
余計なことを言わない。
だからこそ、教室の中で間違いだけが小さく浮かぶ。
ローリエは自分のそろばんへ視線を落とした。
いつもの問題。
いつもの桁。
いつもの答え。
なのに、今日の自分の指は、答えへ向かうより先に、形を見ていた。
左をこうして。
次を軽く。
そのあとで――
「ローリエ」
名を呼ばれ、顔を上げる。
先生の目は、怒ってはいない。
けれど、見逃してもいない目だった。
「今日は遅いね」
教室の何人かがくすりと笑う。
ローリエは少しだけ耳の奥が熱くなった。
「すみません」
「答えは合ってる」
そこで一拍置く。
「でも、今日は答えを見てない顔をしてる」
その言い方に、胸の奥がわずかに鳴った。
見てない。
たしかにそうだった。
いま自分が追っているのは、答えそのものではない。
その前にある流れだ。
先生はそれ以上何も言わず、次の机へ移った。
けれど、ローリエの中ではその一言だけが残った。
答えを見てない顔。
授業が終わる。
子どもたちの声が一気にゆるみ、机の下からかばんが引き出される音が重なる。
誰かが今日の点を気にし、誰かが外の風の話をし、誰かが飴の包みを小さく鳴らす。
ローリエは最後まで座っていた。
そろばんをかばんへしまいかけて、手が止まる。
先生の視線が、まだどこかへ残っている気がしたからだ。
教室の奥で、先生が帳面を閉じる音がした。
「残る?」
その声に、ローリエは顔を上げた。
「少しだけ」
先生はうなずく。
机のあいだをゆっくり歩いてきて、ローリエの前の席へ腰を下ろした。
近くで見ると、先生の手首には乾いた木の粉みたいな気配がある。
いつもそうだったのかもしれない。
でも、今日のローリエには、そこだけが少し違って見えた。
「最近、変わったね」
先生が言う。
ローリエはすぐに返せなかった。
変わった、とは思う。
でも、何がどう変わったのかを、まだひとつの言葉にはできない。
「ちょっと」
「ちょっとじゃないでしょう」
先生の口元がわずかにゆるむ。
「珠を見る前に、位の流れを見てる」
ローリエの指が、机の上でわずかに止まる。
「下段を戻す時、止め方が変わった」
「前より、置く場所を深く見てる」
そこで先生は、ローリエのかばんの脇へ視線を落とした。
「やっぱり知ってる」
その言葉は、静かだった。
静かすぎて、最初は意味が入ってこなかった。
けれど、次の瞬間、胸の奥で一気に熱が立つ。
「……え」
先生は大きく笑わない。
ただ、目だけ少しやわらいだ。
「やってるんだね」
教室の窓の外で、風が校庭の端を撫でた。
その音が、やけに遠く聞こえる。
ローリエは、机の端を指で押さえた。
返す言葉がいくつも浮かぶ。
でも、どれも少しずつ違う気がして、すぐには口へ出なかった。
「なんで」
やっとそれだけ言う。
先生はそろばんを手に取った。
教室で使う、見慣れたそろばんだ。
木枠は使いこまれているが、派手な癖は見えない。
それでも、先生の手へ乗った瞬間だけ、空気の筋が少し変わる。
「知ってる人の手を見るとね」
「分かるよ」
ローリエは目を細める。
「見ただけで」
「見ただけで、は半分かな」
先生はそろばんを机へ寝かせる。
「答えを出す子の手と」
「流れを立てる子の手は、少し違う」
その言い方は、おばあちゃんに似ていた。
でも、同じではない。
もっと教室の明るさに近い。
隠しきらないかわりに、全部も言わない声だった。
「先生も」
ローリエは喉の奥で言葉を選ぶ。
「知ってるんですか」
先生はすぐには答えなかった。
代わりに、自分のそろばんの珠をひとつだけ上へ送る。
次に下を軽く寄せる。
それだけで、教室の机の上に置かれた紙片が、ふ、と揺れた。
ほんの少し。
でも、見間違いようのない揺れ方だった。
ローリエの呼吸が止まる。
先生はそろばんから手を離す。
「昔から、教える側にも少しはいるよ」
少しは。
その言い方が逆に本当っぽかった。
「全員じゃない」
「でも、知らないまま教えてる人ばかりでもない」
ローリエは、まだ先生の手元を見ていた。
今の一打は派手じゃない。
大きくもない。
けれど、教室の机の上で起きるには十分すぎる現象だった。
「なんで言わなかったんですか」
先生は、そこで初めて少しだけ困ったように笑った。
「言う必要がある顔してなかったから」
「でも」
「きみ、前はただ速かった」
「正確で、きれいで、優等生だった」
優等生。
その言葉は少しむずがゆい。
でも、間違っていない。
「今は違う」
「ちょっと遅くなった」
「でも、見てるものが増えた」
ローリエは黙った。
見てるものが増えた。
たしかにそうだった。
位の流れ。
途中の継ぎ目。
切る場所。
終わらせる場所。
軽いはずなのに深く出る、自分のそろばんの癖。
前より、頭の中はずっと忙しい。
そのぶん、前より見えているものもある。
先生は続ける。
「だから、やっぱり知ってるんだなって思った」
ローリエはかばんの中のそろばんへ手を入れる。
木枠の角が指先に触れる。
「先生も、やってたんですか」
「少しね」
「今も?」
先生は首をわずかに傾けた。
「今は、教える方が長いかな」
その言い方の端に、昔の気配が少しだけ見えた。
たぶん、この人にも、教室の外で珠を弾いていた時間がある。
ローリエはゆっくりと、自分のそろばんを机へ出した。
先生の前へ置く。
木枠の古さ。
珠の並び。
見慣れたはずのそれが、今日は少しだけ違う意味を持つ。
先生の目がそこへ落ちる。
ほんの一瞬だけ、教室の先生の顔ではなくなった。
深く見ている。
「……深い子だね」
その呟きに、ローリエの肩がぴくりと動く。
「分かるんですか」
「分かるよ」
先生は木枠へ触れはしない。
触れないまま、見ている。
「軽く入れても、重く出ることがあるでしょう」
ローリエは黙って頷いた。
「扱いにくいはずだ」
その言い方に、責める気配はなかった。
ただ、事実を見たまま置く声だった。
「おばあちゃんにも言われました」
「そうだろうね」
そこで先生は少しだけ笑った。
「知ってる人のところへ行ったんだ」
ローリエは、駄菓子屋のレジ横の缶や、木箱や、夕方の空き地を思い出した。
最初はただの店だった。
今では、入口のひとつみたいに思える。
「先生は、教室で何人くらい知ってるんですか」
聞いてから、自分でも少し変な質問だと思った。
でも、聞きたかった。
先生は考えるように視線を窓の方へ向ける。
「知ってるだけなら、何人も」
「入っていく子は、そんなに多くない」
「なんでですか」
「数字の方で満足するから」
その返事は、ローリエには少し意外だった。
「そっちの方が安定してる」
「答えははっきり出るし、正解もあるし、教えやすい」
先生はそこで一度言葉を切る。
「でも、向こうは違う」
「正しいだけじゃ足りない」
ローリエは、その言葉を胸の中でなぞる。
自分がここまでに負けてきた理由が、全部そこへ入っていた。
速さ。
重さ。
読めなさ。
終わらせる覚悟。
正しいだけでは足りなかった。
先生が、ローリエの手元を見る。
「きみ、まだ答えを出す癖が残ってる」
ローリエは少しだけ顔をしかめる。
「分かりますか」
「分かるよ」
「問題の途中でも、きれいに終わりたがる」
それは、戦いの中でもずっとそうだった。
きれいに組みたい。
きれいに返したい。
きれいに終わらせたい。
でも、戦いはそんなふうに待ってくれなかった。
先生は机の上の紙片を指で整える。
「でも前より、途中を残せるようになった」
ローリエは目を上げる。
「そこまで」
「見てるからね」
それは教師としての言葉でもあり、別の意味も含んでいた。
見てる。
ただ点をつけるのではなく、手の癖まで見ている。
置く前の迷いまで見ている。
ローリエは、少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、先生にはずっと分かってたんですか」
「ぼくが最近、変わってたこと」
先生はすぐに頷かなかった。
その代わり、机の上へ指を軽く置く。
「変わっていく途中だなって思ってた」
途中。
その言葉が、今のローリエには前よりずっとしっくりきた。
完成ではない。
でも、始まってしまっている。
教室の戸の外で、子どもたちの足音がひとつ走る。
遠くで誰かが呼ぶ声。
夕方の学校は、少しずつ別の時間へ切り替わっていく。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、教室の戸からそっと顔を出した。
どうやら、坂の下からついてきたらしい。
「入っていい?」
短い髪の子が聞く。
先生は少しだけ目を丸くしたが、すぐに口元をゆるめた。
「どうぞ」
ふたりは遠慮しながら入ってくる。
教室の机を見て、そろばんを見て、先生とローリエを交互に見る。
「先生も知ってたって」
短い髪の子がすぐに言う。
「やっぱりね」
結び目のゆるい髪の子も、小さく頷く。
「先生の手、静かだったし」
先生はその言葉に少しだけ驚いた顔をした。
「そんなとこ見てたの」
「見るよ」
短い髪の子が即答する。
「ローリエ見てたら、手の音とか止まり方とか、前より気になるし」
結び目のゆるい髪の子は教室の机へそっと触れる。
「ここ、静かだから分かる」
先生は、その返事を聞いて少しだけ黙った。
それから、やわらかく笑う。
「ちゃんと見てるね」
ローリエはそのやりとりを見ながら、胸の奥が少しあたたかくなるのを感じた。
最初は、持ってる方がカッコいい、と言っていた子たちが、
今では手の音や止まり方まで見ている。
変わったのは自分だけじゃない。
先生がふいに言う。
「一回、弾いてみるかい」
誰に向けた言葉か、一瞬分からなかった。
でも、先生の目はローリエへ向いていた。
教室の真ん中。
机の上。
答えを出す場所。
そこで弾く。
前のローリエなら少し迷っただろう。
でも今日は、その迷いが前より短かった。
ローリエはそろばんを手前へ引き寄せた。
上から。
止める。
下から。
止める。
最初は軽く。
次は浅く。
最後は置かない。
短い髪の子が息を止める。
結び目のゆるい髪の子の目が指先へ落ちる。
先生は何も言わない。
弾く。
乾いた音。
紙片がふっと揺れ、少し遅れて机の端のチョーク箱が浅く鳴った。
教室の中では十分すぎる動きだった。
でも、今のローリエには派手には見えない。
ただ、そこへ意味が通った感じだけが残る。
先生はそれを見て、短く頷いた。
「やっぱり、やってるんだね」
さっきと同じ言葉だった。
でも、今度は確認ではなく、少しだけ認める響きがあった。
ローリエはその言葉を聞いて、ようやく少し笑った。
「先生も、やっぱり知ってる」
教室の夕方が、机のあいだへゆっくり落ちてくる。
数字だけの場所だったはずのここが、今日だけは少し違う顔をしていた。
先生はローリエのそろばんを見て、それから静かに言う。
「続けなさい」
短い言葉だった。
「ただし」
「勝つためだけに、速くなるな」
「強く見せるためだけに、重くするな」
その言い方に、ローリエは背筋を伸ばす。
「何のために弾くのか」
「そこを忘れたら、そろばんの方が先に嫌がる」
その一言に、おばあちゃんの言葉も、坂の下の空き地も、ご破算のあとの空っぽも、全部ひとつにつながった気がした。
ローリエは、そろばんへ手を置く。
「はい」
短い髪の子が、すぐに笑う。
「なんか、今日はまじめ」
結び目のゆるい髪の子も、肩を揺らして笑う。
先生まで少しだけ目を細める。
教室の中に、ようやくいつもの空気が戻ってきた。
でも、ローリエの中では、ひとつだけ確かになったことがある。
答えだけを追っていた場所にも、
見ている人はいた。
知っている人はいた。
ずっと前から、手の中の変化を見ていた人がいた。
そのことが、不思議と少しだけ心強かった。
帰り際、先生は帳面を閉じながら、何でもない調子で言った。
「次の計算、楽しみにしてるよ」
計算。
その言葉は、前と同じはずなのに、もう少しだけ広い意味を持って聞こえた。
ローリエはかばんを肩にかけ、教室の戸を開ける。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、先に廊下へ飛び出していく。
夕方の光が、廊下の床へ長く伸びていた。
その光の中を歩きながら、ローリエは胸の奥で小さく思った。
やっぱり知ってる。
やっぱり見てる。
そして、自分はもう、ただ答えを出すだけのところには戻れない。
でもそれは、少しも悪いことではなかった。
コメント
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わあ…このエピソード、すごくよかったです🥀✨ 「答えを見てない顔」って先生の一言、めっちゃ刺さりました。前はただ速くて正確だったローリエが、今は「流れ」を見てる——その変化を先生が静かに見抜いてるシーン、胸が熱くなったよ…! 「続けなさい。でも、勝つためだけに速くなるな」—この台詞、重すぎる。そろばんを通して、生き方そのものを教えてる感じがして、読んでてぐっと来ました🌙 教室の乾いた空気とか、珠の音の描写も好き。最近のローリエ、ちゃんと成長してるんだなって思えて、すごく応援したくなった…!