コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
チョンと拍子木が鳴り、舞台には幕が、さあっと引かれた。
一幕目──、午前の部とも言える第一部が終了したのだ。
それと共に、売り子とお茶汲みが升席をまわり始め、菓子や亀屋が用意した握り飯弁当を売り始める。
家族連れは、持参した弁当を開き、子供にとラムネやせんべいを買い始めた。
すると、軽やかな売り子の声を遮るように、幕の裏から、バン!とピアノの和音が鳴り響く。
観客は、ざわつきながら舞台を見ると、一斉に演目表に目を通した。
ああ、幕間に余興として、男爵夫人が唄うのだったと、皆、再び舞台へ注目する。
小気味良いピアノの音が流れている。
やけに本格的な曲に、一体、余興とは、そもそも、男爵夫人がなぜ唄うのだろうかと、観客の好奇心は高まっていた。
と──。
舞台のすそから、男性の伸びやかな外国語の唄声が流れてくる。
その大きな声は、劇場にわんわんと響き渡った。
おおらかで、そして、堂々とした唄声と共に岩崎が登場する。
幕の裏からは、岩崎の唄に合わせピアノの軽快な音が流れ続けて、その唄声を支えている。
男爵夫人ではなく、タキシードでビシリと決めた岩崎の登場に、演劇場は湧いた。
「京さーん!!」
「このぉ、色男っ!!」
観客はサクラ。ほとんどが岩崎の顔見知りだ。
やんややんやと、掛け声か飛んでいる。
唄いながら岩崎は、見知ったご近所のおかみさんの声援に、仕方なく頭を下げた。
それほど、盛大なものだったのだ。
正直困惑している岩崎だったが、そこへ、助け船が現れる。
「あーああーーあーー!」
劇場の入り口周囲から、高音が流れて来た。
さっと、ほのかな光が差し込める。
花道に男爵夫人、芳子が現れ、灯りに照らされていた。
光の中で、朗らかに笑みながら、高音を発する芳子の登場に、場はどよめく。
「月子、凄いね……」
月子の母も、桟敷席まで響き渡ってくる岩崎と芳子の声に驚いていた。
練習の場などで何度か二人の唄を聞いていたが、本番となると迫力がまるで違っている。
驚いているのは、当然、月子親子だけではない。観客も、目を輝かせ、二人の合唱に聞き入って、というより、芳子の装い、ドレスに釘付けになっていた。
皆、本物のドレスなど見たことがない。芳子のドレスは、肩を出し、胸元にリボンと造花が飾られ、裾はこれでもかとひろがっているもの。それに、長手袋を合わせ、芳子は、観客に手までふっていた。
岩崎の番は終ったようで、芳子の番になっている。
完全に、皆の視線を引き付けた芳子は、どこか満足そうに、勢い良く歌っている。
「あら?後ろにいるのは……」
「あっ、母さん、お咲ちゃんだよね?!」
花道を進む芳子の後ろに、ドレスの裾を持つお咲がいた。
「あれだけ、広がっている洋装だものねぇ。芳子様も歩くのは難しいでしょうねぇ」
月子の母が呟いた。
月子は、ドレスを着て転びそうになったことを思い出す。確かに、裾を持ち上げてもらえれば、歩きやすいだろう。
しかも、芳子は、唄いながらなのだ。
そして、芳子が花道を歩みきり、舞台に近づくと、岩崎が芝居がかった態度で手を差しのべた。
二人は、手を取合い、見つめ会うように、寄り添った。
ここからだ。月子は、ギュッと手を握る。
これから二人の合唱に移り、高音が続いたはずだ。
ピアノが二人の見せ場を促すように流れている。
「らーらららー!」
小さい高音が流れた。
岩崎、芳子の後ろに立っているお咲だった。
堪らなくなったのか、お咲も、合唱の後を追う。
たちまち、舞台は賑やかになり、それに反応するよう、観客から拍手喝采、大きな掛け声の嵐が巻き起こり、唄声がかけ消されそうになる。
この状態に、芳子が意地になり声を張り上げた。
いきなり響いた高音に、観客は、更に盛り上がる。
「月子、凄いわねぇ。芳子様って、やっぱり、男爵夫人なのねぇ。堂々とされているわ。それに、岩崎様も、とても凛々しいねぇ」
月子の母は、身を乗り出しつつ、岩崎と芳子の唄声に聞き惚れている。
月子は、そんな夢中になっている母の様子を微笑ましく思い、同時に、舞台でその存在感を発揮している岩崎を誇りに思った。
舞台からは、男女の息の合った唄声がしっかり流れてくる。
演劇場は、岩崎と芳子の合唱の虜になっていた。
もちろん、月子もその一人で、立派に唄い上げる岩崎の姿に見惚れている。