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時は大正。
人間たちが寄り付かない、深い深い森の奥。
そこには【霊力】と呼ばれる不思議な力で隠された、里があった。
棲んでいるのはもちろん人間ではない。その里は【妖狐の里】と呼ばれており、妖狐と呼ばれるあやかしが住む集落だ。
妖狐はあやかしの中でも上位に位置するほど、強い力を持つ存在。
多かれ少なかれ、【霊力】を操ることができ、一般の人間では太刀打ちできない存在とされている。
しかし、この里で生まれ育った|紋《あや》には、霊力がほとんどなかった。――生まれたときから。
◇
「あっ、落ちこぼれじゃんか」
紋が井戸から水を汲んでいれば、遠くから笑い声と共にそんな声が聞こえてきた。
この妖狐の里で落ちこぼれと囁かれているのは、紋だ。つまり、自分を呼んでいる。
でも、普通に返事をしてやるのは癪なので。紋は聞こえていないふりをした。そもそも、大々的に外でこんな風に呼ぶ存在を、紋はたった一人しか知らない。
(ちょっと霊力が強いからって、他者をバカにするなんてありえないわ)
心の中で悪態をついで、紋は井戸水を入れた桶を持った。
そうすれば、すぐ近くから「落ちこぼれ!」と叫ばれる。……聞き馴染のある声に、紋は眉間にしわを寄せた。
「……なによ、|明臣《あきおみ》」
精一杯睨みつけて、その男の名前を呼ぶ。
明臣と呼ばれた男は、露骨にため息をついた。
「なんだよ、呼んでるのに無視なんて。ひどいじゃないか」
彼は肩をすくめて、紋を見つめる。その美しい顔は、年若い妖狐の女たちを魅了してやまない。
しかし、紋からすれば意味がわからない。こんな意地の悪い言葉ばかり投げつけてくるこの妖狐のどこがいいのかと……。
「ごめんなさいね。……聞こえなかったので」
ツンと澄ましてそう言えば、明臣がちっと舌打ちをしたのがわかった。
「あぁ、そうか。落ちこぼれは耳も遠いのか。はっ、面倒な性質だな」
明らかな挑発。昔は一々反論して、突っかかって。
そうしていた紋ではあるが、今ではもう躱す術を覚えてしまった。そもそも、わざわざ相手をしてやる義理もない。
「おい、ちょっと待てよ!」
紋が踵を返そうとすれば、手で肩を掴まれた。
そちらに視線を向けて「忙しいんだけれど」と吐き捨てる。
その言葉を聞いた明臣の耳が、ぴくんと揺れた。
「お前が忙しいなんて嘘だろうに」
「いいえ、忙しいの。今日は母さまに呼ばれているのよ」
そう言うと、明臣はまた舌打ちをした。
「……そもそも、お前は本当にあの女性の娘なのか?」
「その言葉は聞き飽きたわ。けれど、残念。私は母さまの子よ」
その強い霊力こそ受け継がなかったが、紋の容姿は母にそっくりだ。誰がどう見ても、親子だろう。
「ちっ、|美月《みつき》さんの人生の汚点は、間違いなくお前だよ」
「……わかっているわよ」
ぐっと下唇を噛む。
紋だって、わかっているのだ。自身が母にとって汚点でしかないということくらい。
(母さまだって、霊力の強い子供のほうがいいに決まっている。こんな風にこそこそ陰口をたたかれなくてよかったのだもの)
目を瞑る。紋の母である美月はいつだって優しい。落ちこぼれで、まともに霊力を扱えない紋のことを、蔑ろになどしない。
それどころか、大切に大切に。慈しむように守ってくれる。
そんなことを思うと、涙があふれてしまいそうだった。情けない。自分さえ、いなかったら――。
「お、おい、紋!」
気が付いたら、涙が零れていた。
側にいる明臣が、慌てふためいているのがわかる。この男は失礼なことばかりに口にするが、根本が小心者だ。それゆえに、紋が泣くといつだって慌てる。
「い、言い過ぎたことくらい、わかってるって……」
しどろもどろになりつつ明臣がそう言うが、紋の耳には入らない。
(心無い言葉にはなれている。だけど、母さまのことだけは、馬鹿にされたくないの……)
里の人たちが紋を露骨に差別しないのは。母の力に守られているからだ。
妖狐の里で一番の霊力を持つ妖狐。それが、紋の母の美月だから。