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日下部に何度も拒絶されたわけではない。それどころか、あの不器用でまっすぐな男は、遥の崩れた表情ひとつにも敏感で、気づかれたくない脆さに、なぜか優しく触れてくる。
けれど、それが怖かった。
優しさに触れてしまえば、自分の中の“正しさ”が壊れてしまう。 どれだけ願っても、与えられるはずのないもの。 手に入れてはいけないもの。 ――だから、壊したかった。
それが「自分から裏切る」という選択肢になったのは、遥の中で、愛されることへの飢えと、それを信じることの恐怖が、同時に限界まで膨らんでいたからだ。
「おまえは、それでも信じてくれるのか?」
そう問いかけるように、遥は自らを貶めていく。 自分の価値を自分で否定してみせることでしか、他者の想いを試せない。
それがどれだけ残酷な行為かも、きっと遥自身、知っていた。
日下部は、俺を抱かなかった。
あの夜、俺は確かに求めたのだ。ただ優しさではなく、汚れてもなお見捨てられないという証明を。
けれど、彼は俺の手を取って、ただ静かに、苦しそうに言った。
「違う。そうじゃない。……そんなことしなくていい」
俺の中の何かが、音を立てて崩れた。
何が「違う」のか。
俺は日下部の前で、確かに惨めなほど裸だった。傷だらけの心と、試すために差し出した身体と、壊れかけた“信じたい”という願いを抱えたまま。
その夜のあと、俺は家に帰らなかった。
帰る場所があるふりをしていた部屋に戻る気になれなかった。日下部からの連絡はなかった。あいつはきっと、俺が落ち着くまで黙って待とうとしているのだろう。
それがわかっていて、余計に苦しかった。
だから、俺は蓮司に連絡した。
「おまえんち、行っていい?」とだけ。
わかっていた。蓮司なら、問わずに受け入れる。蓮司なら、何も言わずに抱く。
――それが「最低の選択」だとわかっていても、だ。
蓮司の部屋は、夜の静けさに沈んでいた。
いつもより少しだけ口数が少なかった蓮司は、俺の目を一度だけ見て、それから何も聞かず、背を向けた。
シャワーの音が遠くで響く。
俺はそれを待たずに服を脱いだ。冷たい空気にさらされた皮膚が、自分の決意をなぞるように震えた。
ベッドの上で、蓮司が俺の頬に触れたとき、ほんの一瞬、拒絶しかけた自分に気づく。
でも、止められなかった。
これは試しなのだ。
日下部に断られた俺を、誰が汚すか。それでも、日下部は俺を抱きしめてくれるか――その答えを、この破滅の中で見出すしかなかった。
蓮司は何も言わなかった。ただ俺の崩れた姿を、面白がっているような、悲しんでいるような曖昧な顔で見つめていた。
その夜、俺は確かに日下部を裏切った。
だけど、いちばん裏切ったのは、きっと――信じたかったものに背を向けた自分だった。