テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夜の風は冷たく、教室に取り残された熱の残滓を、遥の髪の端から静かに剥ぎ取っていく。誰もいない廊下を抜け、遥は無言で階段を降りた。胸の奥で、何かが壊れた音がする。日下部の沈黙。そのやさしさ――いや、残酷なまでの拒絶。触れてほしかった。抱いてほしかった。醜くても、汚れていても、それでも。
(俺は……いらないんだ)
その呟きだけが、夜の闇に滲んだ。
待っていたのは、蓮司だった。屋上への扉の影。すでに知っていたかのような余裕。遥の靴音を数えていたのか、それとも、心の乱れを嗅ぎ取っていたのか。
「お前、また泣きそうな顔してるな。……可愛いじゃん」
その一言で、遥は立ち止まる。怒鳴る気力もない。軽蔑するだけの矜持も、どこかに落とした。
「……黙れよ。……うるさい」
震える声。だが蓮司は一歩、また一歩と近づいてくる。その目には、遥の傷の匂いが映っていた。たまらなく滑稽で、愛おしくすらあるような眼差し。
「日下部はさ、優しすぎんだよ。あいつ、お前のこと、抱けねぇよ」
「うるせぇって……言ってんだろ」
声が割れる。喉の奥が熱い。だがその場を離れられない。突き飛ばす腕が、震えて力が入らない。
蓮司が、ふと囁いた。
「だったら、俺にすれば?」
背筋を、冷たい針が走った。けれど、遥は逃げなかった。いや――逃げようとすら、しなかった。
崩れたいと思っていた。試していた。拒まれ、突き放され、それでも誰かに「望まれている」ことを、確かめたかった。たとえ、それが本物の欲望ではなくても。
蓮司の手が、遥の頬に触れる。
(……日下部。俺がこんなでも、見てくれる?
……俺が、他の男に汚されても、お前は……それでも、俺を……)
そんな問いかけは、声にならないまま、喉の奥で潰れた。
破滅は、すでに遥の唇を通って、静かに始まっていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!