真っ赤な炎が燃え盛る中で弘人は倒れていた。
「熱い…」
煙を大量に吸い込んだせいで意識が朦朧とする。
(どうしてこんなことに…)
熱い、痛い、苦しい、悔しい。
様々な感情を抱きながら、弘人は出口に向かって這いつくばって進む。
すると燃えた柱が倒れ、弘人の背中に覆いかぶさってくる。
「くっ…」
今まで体験したことのない熱さと痛みで意識を失いかける。
だけどここで諦めたら、17年の短い人生が終わりを告げてしまう。
(嫌だ!まだ、死にたくない…!)
*****
飛び起きると、薄暗い部屋にカーテンの隙間からわずかに太陽の光が差し込んでいた。
いつの間にか朝を迎えたらしい。
「はぁ…夢か…」
呼吸は荒く、額から汗も流れている。
久しぶりに見た悪夢に鼓動は激しくなっていて、落ち着かせるために胸に手を当てた。
昔はよく見ていたあの夢——
「ここ数年はほとんど見てなかったのに…」
ようやく呼吸が戻って隣に目をやると、みゆがすやすやと寝息を立てて眠っていた。
「気持ちよさそうだな…」
夢の中とは真逆の穏やかな時間が流れている。
隣で眠る可愛い妻の寝顔を眺めながら、弘人は今ある幸せな日常を噛みしめていた。
*****
結婚式や引っ越しで忙しかった日々が落ち着き、弘人は1週間ぶりに出社した。
弘人の会社は六本木のオフィスビルの22階と23階にあるため、まず22階に顔を出して、それから社長室のある23階に行くのがいつもの流れだ。
22階に行くと弘人に気付いた社員たちから元気な挨拶が飛んでくる。
「藤堂さん、おはようございます!」
「おはよう」
弘人は役職で呼ばれることを好まないため、社員たちには“藤堂さん”と呼ばせている。
社長と社員の距離が近い会社というのが弘人の理想だった。
23階のフロアに行くと、専務の山下芳樹とシステム開発部長の小澤隆弘が弘人に気付いた。
「藤堂さん、おはようございます」
「おはようございます」
「2人とも結婚式に来てくれてありがとう」
「いえいえ、こちらこそ招待いただいてありがとうございます。それにしてもみゆさん可愛くて驚きましたよ。いいなー、あんな可愛い奥さん」
「何言ってるんだよ、自分だって美人な奥さんと可愛い娘が2人もいるのに」
山下は36歳で4歳と6歳の女の子の父親だ。
いつも嫁に尻に敷かれていると嘆いているが、それでも奥さんのことを愛していることは言葉の端々から伝わってくる。
「はぁ…2人とも奥さんいて羨ましいです。俺も結婚したいなー」
小澤は独身で彼女募集中の32歳だ。
最近はマッチングアプリで出会いを探していると話していた。
2人とも弘人が起業した時からの付き合いで、弘人が最も社内で信頼している人物たちと言っても過言ではないだろう。
山下と小澤と他愛もない話をしてから、フロアの一番奥にある社長室に向かう。
社長室はガラス張りの部屋で常に社員たちを見ながら仕事ができ、社員たちも常に社長の姿が見られるようになっている。
「結構溜まっているな…」
弘人は出社できない間もテレワークをしていたが、会社のシステムでしかできない仕事が想像以上に溜まっていた。
今日は帰宅が相当遅くなるだろうと覚悟を決める。
(こういう時、夫婦なら妻に連絡するものだよな?あとでメッセージでも送るか)
緊急を要する仕事から片付けていると、部屋がノックされた。
「失礼します」
入室してきたのは社長秘書の北村麗だった。
弘人と同じ28歳で、会社を立ち上げた半年後に入社した。
彼女は元々経理を担当してもらっていたが、お金だけでなく時間の管理能力の高さを買って秘書になってもらった。
と言っても、現在も一部経理の業務と兼任してもらっている。
「緊急の案件はすべてメールでお送りしてますが、それ以外で藤堂さんのご返答がいただきたい案件がありますので、少しお時間いただいてもよろしいですか?」
「うん、大丈夫だよ」
「ではまず、A社の件ですが…」
普通の社員は社長の前では緊張しているか、無理してでも笑顔を作って話すもの。
しかし麗は笑顔を一切見せず、淡々と要件を伝える。
表情がコロコロ変わるみゆとはまさに真逆のタイプと言えるだろう。
「以上です。お時間いただきありがとうございました」
「ううん。いつもありがとう」
「いえ…。では、失礼します」
麗の態度は人によっては「冷たい」「愛想がなくて可愛くない」と言う人もいるだろう。
しかし弘人にとっては、目上の立場の人間だからと態度を変えない姿が裏表がないという証明のようで安心できた。
*****
日付が変わった頃、ようやく仕事を終えて帰宅した。
もしかしたらもうみゆは寝ているかもしれないと思ったが、部屋の電気がついていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
わざわざリビングから小走りで玄関まで出迎えてくれるみゆの姿が、飼い主の帰りを待っていた小型犬のように思えて自然と笑みがこぼれる。
「まだ寝てなかったんだな」
「うん、できればひろくんの顔を見てから寝たかったから。それに、ちょっと話したいこともあったし」
リビングに移動してみゆの話したいことを聞くと、それはホームパーティーを開きたいという提案だった。
先日フォトスタにリビングや窓から見える景色をアップしたら、それを見た会社の先輩からホームパーティー開いてと頼まれたらしい。
その先輩は入社当初にとてもお世話になった方だけど、現在は部署が違うため結婚式には呼ばなかったそうだ。
「だからね、きちんと結婚報告したいなって思ってたの。それで先輩がホームパーティーやりたいなら、その願いを叶えたいって思って…」
ホームパーティーともなればすべての準備を2人で行い、当日ゲストへのおもてなしをしなければならない。
『どこかで食事会をするだけでは駄目なのか?』という疑問も湧いたが、お世話になった先輩の願いを第一に考えているみゆの気持ちを無下にすることはできない。
「いいよ。ホームパーティーしよう」
「本当!?」
「うん。どのくらいの規模で考えてるの?」
「他にも仲の良い会社の同僚を呼びたいから、20人くらいかな」
予想以上の人数に少し驚いたが、この部屋の広さであれば十分入りきるだろう。
「わかった。馴染みのレストランのシェフに出張で来てくれないかちょっと聞いてみるよ」
「ひろくん、ありがとう!」
無邪気にはしゃぐみゆはぎゅっと弘人に抱き着いてくる。
2人兄妹の末っ子として育ったからなのか、みゆは甘えるのがとても上手くて、どんなワガママでも仕方ないなと許してしまう。
こうして2週間後の週末に、みゆの会社の同僚を招いたホームパーティーをすることになった。
*****
弘人は休暇明けで仕事が溜まっていたため多忙を極めていたが、無事にホームパーティーの準備を終えて当日を迎えた。
弘人の馴染みの店のシェフや寿司職人がキッチンで料理の準備を進めている。
そしてテーブルには1本数十万円のワインやシャンパン、幻の日本酒などを並べられていた。
ホームパーティーの開始30分前にはほぼ準備を終えたが、何故かみゆの姿がない。
昼前に少し出かけると言って家を出て行ったきり、まだ戻ってこないのだ。
(もうすぐ開始時間なのに…)
「ただいまー」
「おかえり。どこ行ってたの?」
「えっと、美容院とネイルサロンに行って、それから洋服も何着か買ってきたんだ。ホームパーティーだから身だしなみもしっかりしなきゃいけないかなって思って」
ヘアセットされた髪と綺麗に整えられた爪。
一目で海外の高級ブランドだとわかる新品のワンピースを着ている。
「どう?可愛い?」
「あ、うん。可愛いよ」
確かに可愛いし似合っているが、なんとなく彼女の行動に違和感を覚える。
(当日は準備で忙しいものなのに、何もやらずにネイルサロンや買い物とかって…。普通そういうものなのか?)
「ねえ、それよりもすごいね!料理もスイーツもお酒もこんなにたくさん…!ここまでやってくれるなんて感激だよ」
「せっかくみゆの会社の方々に来ていただくし、しっかりもてなしたいからね」
「ひろくん、本当にありがとう!」
みゆの喜ぶ顔を見て、わずかに弘人の胸に湧いていたモヤモヤとした感情が消え去る。
(とにかく今はゲストに喜んでもらえるように頑張らないと)
*****
18時半、ホームパーティーが始まった。
弘人とみゆの挨拶が終わると、ゲストたちは自由に食事やお酒を楽しむ。
そしてみゆの周りには常に同僚たちが集まっていた。
「こんな素敵な家に住んでいるなんてすごいね!しかも出張シェフを呼ぶなんて…」
「あんなイケメンでお金持ちの旦那様ゲットできるなんて人生勝ち組じゃん」
「みゆちゃん、セレブ妻って感じで羨ましい…!」
「えー、そんなことないよー」
褒められるのが嬉しいという感情が抑えきれず、みゆは謙遜しながらもまんざらでもない顔をしている。
そこに営業部のエースの大崎颯太がやってきた。
「藤堂さん、今日はお招きいただきありがとう」
「こちらこそ、お忙しいところありがとうございます。今日も休日出勤だったんですよね?」
「うん。ちょっと取引先との接待があったから」
颯太の整った顔立ちと長い手足に、上質なスーツがとてもよく似合ってる。
そんな彼の姿をチラチラ見る女性たちがたくさんいて、それだけで社内でもモテているというのがわかる。
(…あれ?あの人…)
ゲスト全員に気を配るために弘人が部屋を見回していると、1人気になる女性がいた。
それはみゆの後輩の武田真緒だ。
他の女性たちはドレスを着て着飾っているのに、彼女だけではブラウスにミモレ丈のスカートと普段着に近い恰好だった。
そして空のグラスを持ったまま、部屋の隅に居心地悪そうに突っ立っている。
弘人はトレーにグラスを複数個乗せて、真緒に話しかけた。
「飲み物のおかわりいかがですか?」
「あ…すみません。あ、えっと…ありがとう…ございます」
真緒は弘人と目を合わせることなく、戸惑った様子でソフトドリンクを受け取った。
(ずっと1人でいるし、社内であまり馴染めていないのかな。でも俺がここで会話するのも違うよな…)
弘人はすぐにその場から立ち去ったが、その後も1人浮いている彼女の存在が気になって仕方なかった。
(今日来てくれた人たち全員に楽しんでもらいたかったけど、やはり難しいものだな)
*****
「はぁ…疲れた…!でも楽しかった」
ゲストたちが帰宅してすべての片づけが終わった後、みゆはリビングのソファに倒れ込む。
「お疲れさま。お風呂先に入る?」
「んー…もうちょっと休みたいから、ひろくん先に入っていいよ」
「わかった」
弘人がリビングから出て行くと、みゆは今日のことを思い出して口元が緩んだ。
弘人は全員のゲストに楽しんでもらうことができなかったと多少残念な気持ちを抱いていたが、みゆとしてはまさにセレブのホームパーティーという雰囲気で大満足だった。
「最高の気分だったな…」
ホームパーティー中はずっと同僚たちから、自宅や弘人のことを褒められたり、羨ましがられたりしていた。
同僚の中には、嫉妬心を向けてきている人もいる。
だけどその人たちが悔しがっている姿や妬んでいる姿でさえもみゆにとっては快感だった。
可愛くない凡人女たちと、可愛くてベンチャー企業の社長の妻に選ばれた自分との差がはっきりと分かって、優越感でいっぱいだったのだ。
(そういえば、さっきフォトスタにアップしたのはどうなったかな?)
スマホでフォトスタを開くと、投稿してまだ30分なのにたくさんのいいねが付いていた。
「おっ、いい感じ!やっぱみんなセレブ妻の日常とか興味あるんだなー」
元々は500人くらいのフォロワー数だったが、弘人と結婚してから一気にフォロワーが増えて現在4000人を超えている。
みゆにとってフォロワー数やいいねの数は自分の価値を数値化したものだ。
今までの自分にも価値はあったけど、ベンチャー企業のイケメン社長の妻という肩書きの威力は物凄い。
「ホントひろくんと結婚して良かったなぁ」
みゆは弘人には見せたことのないような不敵な笑みを浮かべながら、いいねが増えていくフォトスタを眺め続けるのだった——
コメント
2件
みゆ氏が良からぬ方向に…