テラーノベル
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戦線は崩れつつあった。
右翼は押し潰され、
中央も後退を始めている。
伝令たちは次々と敗報を運び、
将軍たちの顔には隠しきれない絶望が浮かんでいた。
ブルートゥースは静かにその光景を眺めていた。
不思議と焦りはない。
怒りもない。
彼は悟っていた。
――終わった。
自分の最後の時が来たのだと。
そして、その瞬間。
彼が真っ先に感じたのは恐怖ではなかった。
安堵だった。
長かった。
あまりにも長かった。
ジュリアスを暗殺したあの日から、
彼に安息の日々などなかったのである。
元老院で刃を振るった瞬間から、
彼は毎晩同じ夢を見た。
血に染まった床。
倒れるジュリアス。
そして最後まで自分を見つめていた目。
軍を集めた。
属州をまとめた。
十万の兵を率いた。
外交を駆使し、
王や将軍たちと渡り合った。
だが何を手に入れても心は晴れなかった。
勝利の先にある未来が見えなかったのである。
国を守る。
自由を守る。
そう信じて始めたはずだった。
だが気づけば、
自分はただジュリアスの亡霊から逃げ続けていた。
「ジュリアス……?」
ブルートゥースは目を細めた。
一瞬だけ。
懐かしい友の姿が見えた気がした。
だがすぐに苦笑する。
「そうだよな……」
空を見上げる。
夕日が赤く滲んでいた。
「英雄を殺すことはできても」
「英雄になるには、人知を尽くして戦わなきゃならない」
乾いた笑いが漏れる。
「あなたのそばで散々見てきたはずなのにな」
彼はゆっくりと目を閉じた。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで戦の音が聞こえていた。
それも次第に遠ざかっていく。
「……私には無理だったのだな」
その言葉を最後に、
ブルートゥースは静かに息を引き取った。
しばらく後。
アントンは本陣の置かれていた丘へたどり着いた。
周囲には倒れた兵たち。
破れた軍旗。
そして、その中央に一人の男が横たわっていた。
ブルートゥースだった。
まるで眠っているような顔だった。
苦悶も。
恐怖も。
そこには残っていない。
アントンはその顔を見た。
不思議だった。
あの日、元老院で見たジュリアスの顔と、
どこか似ている気がした。
かつて共に戦い、
共にジュリアスを支えた友。
やがて彼は静かに肩の留め具を外す。
身にまとっていた紫色の外套が風になびいた。
それをブルートゥースの亡骸へそっと掛ける。
誰も声を発しない。
アントンはただ一言だけ呟いた。
「友よ」
風が吹く。
丘の上で紫の布が揺れた。
「最後までよく戦ったな」
そしてアントンは振り返ることなく丘の上に立った。
拳を天へ突き上げる。
その姿を見て、戦場の兵たちが次々と顔を上げた。
「諸君!」
よく通る声が平原に響く。
「戦いは終わった!」
歓声が起こる。
だがアントンは続けた。
「我らは互いに剣を向けた!」
「掲げた理想は違った!」
「敵となり、友を失い、血を流した!」
一瞬の沈黙。
そして。
「だが――」
「我々は同じグラン人だ!」
兵たちが息を呑む。
「捕虜となったことを恥じるな!」
「敗れたことを恥じるな!」
「諸君は祖国のために戦った!」
「その勇気を私は知っている!」
風が軍旗を揺らした。
アントンは両腕を広げる。
「明日からは共に歩もう!」
「共に祖国を支えよう!」
「そしてまず――」
彼は西の空を見た。
「共に故郷へ帰ろうではないか!」
捕虜を吸収したアントン軍は、今や十数万を超える大軍となっていた。
勝利の軍旗が風になびく。
兵士たちは歓声を上げ、フィリピアの街へと入城していく。
通りには人々が溢れた。
花が投げられ、
酒樽が運び出され、
戦勝を祝う歌が響く。
だが、その中心にいるはずのアントンは早々に席を立っていた。
祝宴もほどほどに切り上げる。
側近数名だけを伴い、与えられた屋敷の一室へ下がった。
扉が閉まる。
護衛兵が周囲を固める。
やがてアントンは静かに命じた。
「人払いをしろ」
部屋から人影が消えた。
重い沈黙が落ちる。
しばらくして。
控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
扉が開く。
旅塵にまみれた伝令が姿を現した。
周囲を確認すると、そのまま膝をつく。
「申し上げます」
「王都より急使にございます」
アントンは椅子にもたれたまま頷いた。
「話せ」
伝令は一瞬だけためらう。
そして声を潜めた。
「ジュリアス殿の遺言が公表されました」
アントンの目が細くなる。
「近くへ」
伝令はさらに身を寄せた。
耳元で短く報告する。
内容は数言だった。
だが。
それを聞いたアントンの口元がゆっくりと歪む。
「……そうか」
小さく呟く。
そして椅子から立ち上がった。
窓辺へ歩く。
夕日がフィリピアの街を赤く染めていた。
「なら決まったな」
伝令は黙ったまま頭を下げる。
アントンは振り返らない。
「まずやるべきことは一つだ」
低い声だった。
「イージプへ使者を送れ」
伝令が顔を上げる。
「ブルートゥース軍へ兵糧を送った件についてだ」
「正式に抗議する」
「釈明を求めろ」
「はっ」
伝令は頭を垂れた。
だがアントンはすでに別のことを考えていた。
卓上の酒瓶を手に取る。
琥珀色の液体をグラスへ注ぐ。
静かな音が部屋に響いた。
そして窓の外を見る。
豊かな平原。
黄金色の麦畑。
遠くまで続く農地。
戦争で荒れたグランとは比べものにならない。
アントンはゆっくりとグラスを揺らした。
「グランなど不毛の地だ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
夕陽が彼の横顔を照らす。
「見よ、この光景を」
フィリピアの街が眼下に広がっていた。
交易路の要衝。
豊かな穀倉地帯。
兵を養い、国を支える土地。
アントンは満足そうに微笑んだ。
「王国のために戦ったつもりだったが……」
グラスを口元へ運ぶ。
「世界の王にもなれる豊穣の大地ではないか」
窓の外で勝利を祝う歓声が上がった。
だがその声はもうアントンの耳には届いていなかった。
彼の視線はさらに遠く。
まだ見ぬ世界へ向けられていた。
王都グラン――。
元老院の大広間には、重苦しい静寂が満ちていた。
壇上には元老院議長オセロ。
その傍らには若き王ライナー。
そして元老院の有力者たちが並んでいる。
誰もが今日のために集められていた。
ジュリアスの遺言状が公開される日である。
オセロは羊皮紙を広げると、静かに読み上げた。
「私、ジュリアスは健全なる精神のもと、この遺言を残す」
広間の空気が張り詰める。
「ライナー王を私の後継者と認める」
ざわめきが起こった。
だが、それは予想されていた内容だった。
オセロは続ける。
「アントンおよびブルートゥースは王を補佐し、国家の安定に努めること」
元老院議員たちは互いに顔を見合わせる。
すでに両者は剣を交えようとしている。
皮肉な遺言だった。
そして最後の一文が読み上げられる。
「私の財産の四分の三をライナー王へ譲る」
「残る財産を処分し、グラン市民全員に三百ディナールずつ分配する」
今度は広間全体がどよめいた。
三百ディナール。
庶民にとっては大金だった。
ジュリアスは死してなお民衆へ金を残したのである。
読み終えたオセロは羊皮紙を閉じた。
「以上です」
誰も言葉を発しない。
その沈黙が、かえってジュリアスという男の大きさを物語っていた。
やがて会議は終了し、人々は散っていく。
ライナーはオセロに声をかけた。
「議長、お時間をいただけますか」
「構いませんよ」
老人は杖をつきながら答えた。
二人は奥の小部屋へ移った。
窓から差し込む夕日が部屋を赤く染めている。
しばらく沈黙が続いた。
ライナーは静かに羊皮紙を閉じた。
部屋にはしばらく沈黙が流れる。
窓から差し込む夕日だけが机を照らしていた。
オセロは腕を組んだまま鼻を鳴らす。
「私はあの男が嫌いでした」
「……え?」
ライナーは思わず顔を上げた。
「傲慢で、強引で、自分が正しいと信じて疑わない」
オセロは肩をすくめる。
「ですが」
「その才能だけは認めていましたよ」
老哲学者は机の上の遺言状を見た。
「ライナー王を後継とする」
「アントンとブルートゥースはこれを補佐せよ」
「市民に財を分け与えよ」
小さく笑う。
「まったく」
「死んでなお命令する気らしい」
ライナーも思わず苦笑した。
オセロは続ける。
「彼がそうすると言ったのです」
「なら、そうなさい」
「私は哲学者ですからな」
「運命だの神意だのは信じません」
「ですが」
「人を見る目に関しては、あの男は誰より優れていた」
オセロは窓の外を見た。
王都の向こうには夕焼けが広がっている。
「許した者に殺され」
「救った者に裏切られ」
「挙げ句に内乱です」
「あれほど賢い男が、どうしてそこだけ愚かなのか」
一度言葉を切る。
そして静かに笑った。
「それが彼の美点であり」
「欠点でもあったのでしょうな」
ライナーは遺言状へ目を落とした。
オセロは最後に言う。
「少なくとも」
「あの剣闘士が王国を導くよりは」
「あなたに賭けたかったのでしょう」
「ジュリアスは」
コメント
1件
ブルートゥースの最期、めっちゃグッときた……!「英雄を♡♡♡ことはできても英雄になるには〜」の台詞、重すぎて何回も反芻しちゃったよ😭💔 アントンが紫の外套かけるシーンも、敵同士の友情とか哀愁が詰まっててエモすぎる!!最後の遺言でジュリアスがまだ皆を動かしてるのもすごいな……次回も気になる!!⋆♡
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