葉月と猫が森の散歩から帰って来た時、ベルは一人で朝食を取っていた。否、テーブルに着いてマーサが給仕した朝食を前に、ただ座っていただけだった。手を付けられないままのスープは間違いなく冷めているし、焼き立てだったパンも一欠けらを千切った状態のまま口にもしていない。
「そんなに心配されるのなら、様子を見に行かれたら宜しいのに」
「猫が一緒なら、大丈夫よ」
口ではそう言っているが、全く大丈夫そうじゃない。見ているとおかしくて堪らない。他人に無関心だったあのお嬢様が、人の心配をしてオロオロしているのだ。まるで妹を想う姉のようだと、世話係は微笑ましく思った。
お喋りな庭師から、葉月が魔獣討伐した話を聞いてはいたが、マーサ自身も心配していない訳ではなかった。けれど、ベルの心配する様はそれ以上に思えた。
しばらくそんな時間が続いていたが、ふっとベルが緊張を解いた。
「戻って来られたのですか?」
「ええ。そうみたいね」
一人と一匹が結界内に入ったのが確認できたのか、ベルはずっと手にしていたパンをようやく口に入れた。マーサは顔が緩むのを必死で隠しながら言う。
「こちらは温め直した方がよろしいですね」
「葉月の分も用意して貰える?」
畏まりましたと、冷えたスープ皿を回収して調理場へ。ベルにはすぐに温かい物を提供し、葉月の朝食の準備にも取り掛かった。
「あら、おかえりなさい」
そうっとホールへと入って来た葉月は、ベルの顔色を伺うように、えへへとはにかんでいる。怒られるのは分かってます、とでもいうように。先にそんな顔をされると怒るに怒れないと、ベルは小言を言うのは諦めて、一緒に朝飯を食べるようにと促した。葉月が席に着くとすぐさま、マーサがワゴンを押してやってくる。
揃って並んで帰って来た猫は、トンとお気に入りのソファーに飛び乗ると、お散歩で汚れてしまった脚や身体の手入れを始めていた。結局、くーの散歩コースについては分からず仕舞いだったが、いつもどんな風に遊び歩いているのかは何となく見れたような気がする。
「今日も薬作りはお休みですか?」
森であったことを報告し終わった後、ベルに今日の予定を聞いてみた。薬店の横流しの件はまだ本邸にベルの手紙が届いたばかりの段階なので、何も進展はない。解決するまではしばらく作らないのかと思っていたが、魔女の答えは違っていた。
「今ある瓶で作れるだけ作ろうと思うの。葉月も手伝ってね」
「薬屋さんは営業されてるんですか?」
「ええ。勿論」
若い店主にはいつも通りに店を開けるようにと指示を出してある。聴取で本邸に呼び出されたりする場合でも、不自然じゃないように店は開け続けるようにと。隠居した父親もまだ健在らしいし、そこは何とかなるはずだ。彼に横流しを持ち掛けて来た行商人には、決して事がバレているのを悟られないようにと念を押してある。
店主の話を聞いていると、どうもその行商人は森からの納品を見計らって店に来ていた気がしてならない。もしかすると近くで店のことを監視しているのかもしれないとベルは考えていた。
「薬を持っていけば、すぐに来ると思うのよね」
瓶はたくさんあるし、と悪戯っぽく笑う。葉月はそのベルの笑顔には見覚えがあった。研究者の家へ魔法を仕込んだ手紙を放り込んだ時にも、全く同じ顔をしていたはずだ。
さすがに今回は、誰が購入するかも分からない薬には何も仕掛けたりはしないと思うけれど……。
まずは誘き出す為に必要な納品用の薬の準備だ。やっぱり回復薬と傷薬辺りが良いかしら、とベルはとても楽しそうだった。
店での直接の立ち回りは本邸がやってくれるのだろう。ここで出来ることは、薬を領外へと持ち出している犯人が飛び付いてきそうな品を用意することだけ。
青い瓶はどれくらい残ってたかしらね、と張り切って作業部屋へと向かうベルの後ろを、葉月は困惑しながらも追いかけた。楽しそうで何よりだけれど、と。
今日は庭師は来ていないので、納品が出来るのは早くても明日の夕方以降になるだろうか。
本邸からの連絡はいつも庭師が運んで来てくれていたので、それも明日かなと悠長に構えていたら、そちらの方は昼過ぎに従兄弟のジョセフによって持ち込まれた。
「君に頼って貰えて、とても嬉しいよ」
開口一番でおかしなことを言う従兄弟に、ベルは苦笑いするより他ない。魔女としての報告の義務を真っ当しただけで、彼を頼った覚えは微塵もない。
「叔父様は何て?」
「君の指示に従うって」
敬愛する領主のご子息の訪問に、マーサはご機嫌でお茶を用意してくれていた。ソファーで向かい合って、領主からの手紙を受け取る。親族宛の略式な物ではない、公式的な封書だった。
早速の本邸の聴取でも店主からは新たな情報は得られなかった為、ベルの提案したおびき出し作戦を試してみることになったようだ。
「まさかと思うけれど、ジョセフが店には行かないわよね?」
「そこは腕の立つ人員を配置した方がいいって、止められたよ……」
それなら良かったわと、ベルはホッと胸を撫でおろした。何の自信があって立候補しようとしたのだろうか、不思議でならない。
「心配してくれるのかい?」
「ええ、作戦が失敗しやしないかをね」
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