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土曜日の朝。目覚ましが鳴るよりも早く、私は布団の中で目を開けた。窓の外から入ってくる潮の匂いと、遠くで響く波の音。それだけで今日は特別な一日になる予感がした。


寝返りを打つと、首元でカメラのストラップがひやりと肌をなでる。昨夜からそのまま掛けて寝てしまった。撮りたい景色がありすぎて、夢の中でもシャッターを切っていたくらいだ。


「今日はひまわり畑遠征だよ、ソラ」

ベッドの足元で丸まっていた愛犬が、片耳だけぴくりと動かして「わん」と短く返事をする。まだ眠いくせに、尻尾だけは元気いっぱいだ。


キッチンへ行くと、母がすでにおにぎりを包んでいた。ラップ越しに湯気がほんのり曇って、梅の酸っぱい香りがふわっと漂う。

「梅と鮭にしたわよ。保冷剤を二つ入れるから、ちゃんと持って帰ってきてね」

「わかってるって。今日はバスでひまわり畑行って、そのあと丘の展望台寄って、駅前で解散だから」

「小学生の団体と重なったら賑やかになるわね。あんまりはしゃぎすぎないように」

「私が一番落ち着いてるよ、多分」

そう言ったら、廊下から弟の陽翔が顔を出す。

「お姉ちゃんが落ち着いてるとか、一度も見たことないけど」

「うるさい」


父は新聞を片手に「帰りに牛乳買ってきて」とだけ言い、またページをめくった。こういう無駄に具体的な頼みごと、うちでは日常だ。


リビングの椅子に座って、母が用意してくれたスクランブルエッグとトーストをかじる。黄身のやわらかさと、バターが染みたパンの香ばしさ。こういう朝食の日は、なんだか遠足の朝みたいで心が軽くなる。


食後に荷物の最終チェック。カメラ、バッテリー、替えのSDカード、予備のマスク、折りたたみレインコート、飲み物、おにぎり。

「よし、完璧」

靴を履いて、ソラの頭をなでる。「留守番お願いね」

ドアを開けると、朝の光が顔に降り注いだ。まだ少しだけ涼しい空気に、潮の香りが混じっている。


集合場所のバス停までは、小走りで十五分。商店街を通るたび、八百屋の店先から甘い桃の香りや、パン屋の窯から漂うバターの匂いが鼻をくすぐる。…本当は寄り道したいけど、今日はやめておく。


バス停に近づくと、日陰に立つ二人が手を振った。瑠衣は白い帽子、彩葉はスポーティーなキャップ。二人とも涼しげな顔で立っていて、私のパンパンなボストンバッグが一気に恥ずかしくなる。

「また“全部持ってきたら重くなった”やつでしょ」

「一度全部持ってみないと、必要なものが見えないんだって」

「それ、逆だから」


少し遅れて悠真と蒼介も到着。悠真は片手でクーラーボックス、蒼介は三脚を肩に担いでいる。

「お、全員そろったな」

「おにぎり二段構えだよ。シェアOK」

「おー、いいね」


そのとき、カーブの向こうから青いバスがやってきた。「青浜循環」の文字。

「これで合ってるよね?」

「時刻表だと“三番のりば・北回り”って書いてあるし、大丈夫だろ」


車内は空いていて、後ろの四人掛けを二つ確保。座った瞬間、エアコンの冷たい風が背中に気持ちいい。

発車チャイムが鳴り、軽快な音楽と共にアナウンスが流れた。

「本日は『青浜市・いきいきシニア交流会バス』をご利用いただきありがとうございます」


全員「……え?」

「美空、私たちいきいきしてる?」

「年齢的には全然違うけど…」


窓の外から、市民センターで集合したおじいちゃんおばあちゃんが、笑顔で乗り込んでくる。

「君たち、乗り間違えたんじゃない?」と運転手さんが声をかけてきた。

「えっと…ひまわり畑に行きたいんですけど…」

「それ、“北回り”じゃなくて“北原線”だよ。のりばも向こうの五番ね」


次の停留所で降りて、おじいちゃんおばあちゃんたちに「いってらっしゃい」と笑われながら手を振る。反対側のバス停まで全力ダッシュ。

「朝から走りすぎじゃない?」

「美空、そのバッグ貸せ」

「ありがと…軽々だね」


五番のりばに着くと、まるでタイミングを合わせたみたいに「北原線」のバスが到着。今度は小学生でぎゅうぎゅうだ。

「社会科見学かな?」

「賑やかすぎるな…」


車内が発車直後にミニコンサート化するのは、このあとすぐだった——。


車内が発車直後にミニコンサート化するのは、このあとすぐだった。


「なつやすみー、ぼくらのー、バスはー、いくーよー!」


前の方で先生が手拍子を始めると、黄色い帽子の子たちが一斉に歌い出した。最初は驚いたけど、妙に楽しくて、つい指で膝をとんとん叩いてしまう。


「この歌、初めて聞くけど耳に残るね」

「踊る?」

「やめて、ここバス」


笑いながらも、頭の片隅で不安が芽生える。——で、どこで降りるんだっけ。


「ねぇ、ひまわり畑の最寄り、覚えてる?」

「……電波、弱い。地図、砂時計のまま」

「まさかの“乗ったけど降り方わからない”コンボ」

「ない」


その時、前歯の抜けた男の子がくるっと振り返った。


「お姉ちゃんたち、ひまわり行くなら“北原団地入口”だよ」

「ほんと?ありがとう!なんで知ってるの?」

「ぼく、そこ住んでるから」


運転手さんがバックミラー越しにこくり。助かった。

車内はまた合唱モードに戻り、窓の外では田んぼの濃い緑が近づいては遠ざかる。風がガラスを薄く揺らして、夏が透明になったみたいに思えた。


バスを降りると、空は一段と高く見えた。アスファルトが白く乾いていて、遠くに黄色い帯がにじんでいる。そこへ向かう畦道は、土の匂いと草の匂いが混じって、靴底に夏の音がついてくる。


「トノサマバッタ!」

「撮る?」

「逃げた」


子どもの頃に戻ったみたいに、道端でいちいち盛り上がる。電柱の影が短く、少しずつ動いていくのを眺めながら歩くと、やがて風の向きが変わった。ひまわり畑の端に着いたのだ。


一面の黄色。背中を押すみたいな熱。

そよぎ合う花の頭が、同じ方向を向いて微笑んでいる。

言葉より先に息が漏れた。


「……わぁ」


カメラを目に当てる。まずは広角で全景、次に少し絞って列のリズムを拾う。ファインダーの四角の中で、黄色い音楽が始まる。


「ね、あっちの道、迷路みたい」

「行ってみよ」


土の小道は、ところどころ花びらが落ちて黄色い紙吹雪みたい。足首のとこを草がくすぐる。前を歩く背中越しに、笑い声が跳ねる。


「待って、帽子、飛ぶ」

「だいじょ……きゃっ!」


突風。麦わら帽子がふわりと浮いて、黄色と青の境目へころがっていく。反射的に追いかける。土が少し柔らかくて、足が沈む。あと三歩。あと二歩——。


「はい、ストップ」


横から伸びたスニーカーのつま先が、帽子の縁をそっと止めた。

息を切らして近づくと、笑い混じりに帽子を渡される。


「今日、止める係、多くない?」

「ヒーローってそういうもんでしょ」

「誰の物語」


かぶり直すと、内側に入った砂がしゃりっと鳴った。その音すら今日は好きだ。


丘のほうへ向かうと、途中に直売所の小さなテントがあった。ソーダ色の氷旗がひらひらしている。


「寄ってこ」

「のど、からっから」


紙のカップに入った手作りの青いアイス。スプーンでひとなめしただけで、背中の汗が一瞬ひく。


「これ、写真撮る?」

「撮る前に溶ける」

「正論」


店の奥から、おじさんが出てきた。


「丘の上、今は風がいいよ。写真の子たち、カメラ落とすなよ」

「落としません、多分」

「“多分”やめて」


笑い合って、丘を登る。

中腹で少し足首がずるっとひねけた。痛っと声が漏れると、横で影が止まった。


「大丈夫?」

「平気、ちょっとつっただけ。ありがと」


草いきれの匂いに混じって、どこかで麦茶みたいな甘い匂いがする。

丘のてっぺんに腰を下ろすと、風が汗をあまく乾かしていった。


「おにぎり、出すね」

「塩気が神」


ラップをはがした瞬間に広がる梅の香り。口の中がきゅっとなって、すぐに満たされる。

紙袋がふわっと動いたから、慌てて押さえる。


「今日、飛ぶもの多すぎない?」

「風のいたずら。夏の仕様」


笑っているうちに、空が少しだけ濃くなった。雲の影がひまわりの海を横切る。

その影が通り過ぎる瞬間、列の奥の一本、他より少し背の低い花が、遅れてうなずいたように見えた。


「今の、もう一度」


カメラを構える。風が、ほんの一拍止まる。

シャッターの音が、小さな鐘みたいに胸の奥を鳴らした。


撮影に夢中になっていたら、遠くの空で薄く光った。数秒後、やわらかい風。

夏のにわか雨がパラパラと落ちてきた。


「きた!」

「とりあえず木陰に」


駆け込んだ小さな東屋で、服に落ちた細かな水玉がスパンコールみたいに光る。雨といっても、叩きつけるんじゃなくて、景色を一枚フィルムで包む感じ。


「レンズ、拭く?」

「まだ大丈夫。むしろ、この薄いベール、撮りたい」


東屋の柱に肘をついて、開けた方へ向けて一枚。

雨粒が空気の濃度を上げて、黄色と青の境界をやさしくぼかす。

すぐに雨がやみ、空気の匂いが一段さっぱりした。


「虹、出るかな」

「こっち」


誰かが指さした先、薄い弧。淡すぎて、見ようとしないと見えない程度。でも、たしかにある。


「今日、全部入ってるな……歌に、風に、雨に、虹」

「あと、飛ぶもの」

「やめて」


帰りの時間を確認すると、バスは三十分後。

ゆっくり畑を抜ける途中、管理のおじさんが通路の土をならしていた。


「足元、気をつけてな。カメラ、いい音するね」

「ありがとうございます。今日、最高です」

「また来いよ。来週にはここのひまわりも、もう背が下がってくる」


畑の端でふと振り返ると、朝より黄色が深く見えた。それは、私の胸の中の色が濃くなっているせいかもしれない。


バス停では、電柱の影がだいぶ伸びていた。ベンチはなくて、みんなで立ったまま汗を拭く。

そこへ、行きのバスで歌っていた子たちが、反対側の道からぞろぞろ戻ってきた。


「お姉ちゃんたちー!」

「楽しかった?」

「楽しかった!ハチいた!」

「それはスリリング」


列の最後尾で、あの前歯抜けの男の子がこっそり近づいてきた。


「これ、あげる」

「なに?」

「ひまわりのシール。夏の宿題でもらったやつ」


掌に小さな黄色い丸。

カメラのストラップに貼ると、黒にちょこんと、今日の印が灯った。


バスに乗ると、帰りは静かだった。車内の冷房が眠気を誘う。

窓の外で畑の黄色が後ろに流れていくのを、額の少し上のほうで見送った。


「今日、一番なにが良かった?」

「雨の薄いベール」

「帽子止めた瞬間」

「おにぎり」

「全部」

「だよね」


駅に着く。夕方の空気は、昼より甘い匂いがした。

改札前で立ち止まり、お互いの肩を軽く小突く。


「写真、アルバムにして共有ね」

「変な顔のやつ、却下で」

「検討」

「やめて」


肩をすくめあって笑う。

別れ際、三脚の角度を直してくれた手が、そのまま私の重たいボストンをひょいと持ち上げた。


「駅の外まで、持つ」

「ありがと。……ねぇ、今日の“止まった風”、気のせいじゃなかったよね」

「どっちでもいい。押したから、写った」


その言い方が、なんだかとても好きだった。


玄関の鍵を回すと、ソラが床をトントン鳴らす勢いで尻尾を振りながら飛びついてきた。


「ただいま。ただいまの舞やめて、砂が舞う」

「おかえり。今日、どうだった?」

「最高。ちょっと雨に降られて、ちょっと飛んで、たくさん笑った」

「それはよかったわ。手、洗って、顔冷やして。麦茶、冷えてるわよ」


キッチンには、冷えたグラスと、氷の音。

麦茶の香ばしい匂いが、からっぽのところをやさしく満たしていった。


「ねぇ、牛乳……」

「買ってきたよ。ちゃーんと」

「えらい」


PCにメモリーカードを差し込むと、サムネイルが画面いっぱいに湧いて出る。

帽子が飛んだ一瞬前、止まった一瞬後。

紙袋の口がふわっと浮きかけたけど、誰かの指先がそっと押さえている画。

雨のベール越しの黄色い海。

そして、背の低い一本のひまわりと、その向こうの、波みたいに揺れる群れ。


「見せて見せて」

「ちょっと、手、ベタベタじゃない?」

「ちゃんと拭いたもん」


隣に座った陽翔の笑い声が耳元で跳ねる。

スクロールを止めると、画面の片隅に、小さな黄色いシールが写っていた。ストラップの端。今日の印。


「これ、壁に貼る?」

「貼る。部室のいちばん端っこに」

「端っこ?」

「ジャンプ写真の私、目つぶってるから」


笑い合って、息をつく。

窓の外で、風鈴がひとつ鳴った。

風は昼よりしっとりしていて、目を閉じるとまだ足の裏が少し熱い。


——行き先を間違えても、ちゃんと着く。

——飛びそうでも、なんとか守れる。

——写るかどうかは、押すかどうか。


当たり前のようで、今日の夏が教えてくれたこと。

それを、忘れないように、今日のアルバムの一枚目に“北原団地入口”の写真を置いた。バスの行き先表示と、うっかりの自分への小さなメモ。

次は、間違えない。たぶん。できれば。

でも、もしまた間違えても、たぶん大丈夫。そう思えるくらいには、今日の光は心強かった。


「お風呂入っちゃいなさい。汗、ちゃんと流して」

「はーい。あ、明日の朝、パン屋寄ってもいい?」

「いいけど、帽子にクリップつけていきなさいね」

「……はい」


返事をしながら、クローゼットの奥からクリップをひとつ持ってくる。

麦わら帽子のつばにぱちん。

次のドタバタに、ひとつ先に笑いを置いておく。


廊下を通り過ぎると、ソラがごろんとお腹を出した。

撫でながら、今日いちばんの一枚をスマホに送る。

グループチャットの名前は──“青浜夏ログ”。


通知の光が小さく弾けて、部屋の灯りが少しだけやわらいだ気がした。

夏はまだ、続く。明日も、明後日も。

そのたびに、たぶん私は少し走って、ちょっと笑って、シャッターをひとつ押す。


——久遠美空のバス大混乱。

終わりよければ、全部よし。

次は、どこへ行こう。

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