チリーの言葉に、その場にいた全員が息を呑む。
「ちょ、ちょっと待ってよ……アンタ今、”エリクシアンに戻って”って言わなかった……?」
恐る恐る問うシアに、チリーは頷く。
「……今の俺はエリクシアンじゃねェ。あの女に力を奪われた」
「何だと……!?」
「一から説明してる暇はねェンだ! 俺にエリクサーを渡せ! ミラルを助けに行く!」
いくら聖杯の力があるとは言え、ノアと対峙してミラルが無事でいられるわけがない。一刻も早く飛び出して、ミラルを助けに行きたいのがチリーの本音だ。
しかし、今のチリーではそれはかなわない。
ただの人間でしかない……何者でもなくなった今のチリーには。
「説明しただろ! 俺の持っているプロトエリクサーは、適合しなかった人間を怪物に変える危険な代物だ! リスクが大き過ぎる!」
アルドの持つプロトエリクサーは、ゲルビア帝国でも最初期に作られた濃度の高いエリクサーだ。その危険性は、チリーも三十年前に目の当たりにしている。
「その時は俺を殺せ、頼む」
しかし一切の躊躇もなく、チリーはアルド達をまっすぐに見据えてそう答える。
「お前……!」
チリーの決意が、視線を通してアルドにも伝わってくる。ミラルが危険にさらされている以上、一刻を争う事態なのは間違いない。
「ッ……!」
エリクサーの入った瓶を取り出し、アルドは震える手で握りしめる。
研究所(ラボ)での悍ましい実験が、繰り返される無惨な死が、アルドの脳裏にまざまざと蘇る。
アルドにとって、このエリクサーは忌むべきモノだ。あの時持ち出したことをずっと後悔し続け、今も思い出すだけで震えてしまうようなモノなのだ。
「頼む……今は、それに賭けるしかねェンだ……!」
チリーの声音は、どこか縋るようだった。
震えながらも、アルドはエリクサーをチリーに差し出そうとする。
だは、その手をシュエットが制止した。
「ダメだ! 渡せん!」
「おいシュエット! ふざけてる場合じゃねェンだぞ!」
「ふざけてなどいない! 今のお前が飲むくらいなら、この俺が飲む!」
「ハァ!?」
シュエットの言葉の意味がわからず、チリーは眉をへの字に曲げる。
そんなチリーにずい、と近寄ってシュエットは睨みつけた。
「お前は言ったな。怪物になったら殺せと」
「当たり前だろ! お前らにしか頼めねえよ!」
「絶対ダメだ! 俺はお前を殺してやらん!」
「馬鹿なこと言ってンじゃねェ! 俺がバケモンになったら、誰かを傷つける前に殺せ!」
チリーがそう叫んだ瞬間、シュエットはチリーの頬を右手で殴りつける。
わけがわからずチリーが目を丸くするチリーに、シュエットは力強く怒鳴った。
「だったら怪物になんかなるな! 必ずエリクシアンに戻って、人間としてミラルさんを助けに行くと言え! 二つに一つの局面で、失敗する時のことなんか考えるな!」
シュエットの言葉に、チリーはハッとなる。
シュエットの言う通りだ。
この局面で、必ず成功すると信じられないでどうするというのだろうか。
必ずエリクシアンに戻り、人間としてミラルを救う。まずチリーがそれを誓えなければ、周りに信じろだなんてとても言えるわけがない。
チリー自身が、どこかで捨て鉢になっていたのかも知れない。
信じていたものが崩れ去り、力も、使命も奪われた。
何もなくなった自分には、もう失うものなどないと。
「言え! 必ず成功させるとお前の口から言え! ……言ってくれ……ッ!」
シュエットの目には、薄っすらと涙が滲んでいた。
「……悪かった」
沸騰していたような頭が、スッと冷えていくような感覚だった。
チリーは深く息を吸い込んで、もう一度決意を固める。
「必ず成功させる。だからエリクサーを渡してくれ、ミラルを助けるために」
成功を約束してくれるものなどこの世にはない。
だが絶対的な前提条件が存在する。
それこそが”強い意志”だ。
意志を欠いたままでは、成功などあり得ない。
「そうだ。それで良い……俺はわかっているぞ、チリー。お前は強い」
「そう見えてたかよ」
「見えてたさ。一度折れても立ち上がる。誰かのために命を賭けられる。力や能力じゃない、心が強いんだお前は……俺と同じだな!」
「けっ、ムカつくが否定する気にはならねェな」
そう言って静かに笑うと、シュエットは二カッと歯を見せて笑う。
「よし、信じてやろう! ……死ぬなよ」
「……ああ」
短く答えてチリーはもう一度手を伸ばす。
その手に、アルドはそっとエリクサーを手渡した。
「お前に託す……ミラルを、助けてくれ」
アルドからエリクサーを受け取り、チリーはすぐに蓋を開ける。
迷いは一切なかった。
チリーはエリクサーを一気に飲み干す。
「ぐッ……!」
エリクサーを口から流し込んだ瞬間、荒れ狂う何かが体内をのたうち回る。賢者の石でエリクシアンになった時と同じ感覚だ。
チリーはそれを、意志の力で抑え込もうとする。
「おッ……おおおおッ!」
身体が不自然に隆起と陥没を繰り返し始める。人間ではない、別の何かに変化しようとしている。
「チリー!」
シュエット達の声は、もうほとんど聞こえていなかった。
三十年前、赤き崩壊(レッドブレイクダウン)が起こったあの日。テイテス王国内で暴れまわっていた不定形の怪物の姿が脳裏を過る。
腹の底から恐怖がせり上がる。
あんな忌まわしい怪物にはなりたくない。
「おおおおおおおおおおッ!」
雄叫びを上げ、チリーは恐怖を抑えつける。
必ず成功する。
必ずミラルを助け出す。
そう、固く誓って。
***
ミラルとノアの戦いは、半ば拮抗しながらもやはりノアが圧倒的に優勢だった。
慣れない魔法をなんとか操り、ノアに対抗するミラルだったが、その力の差は徐々に浮き彫りになり始める。
「はぁっ……はぁっ……!」
直接的なダメージは回避出来ているが、連続で魔法を使用したことによる疲弊がミラルを蝕む。肩で息をしながら、ミラルは空中で微笑むノアを睨みつけていた。
「流石に疲れた? 楽しかったね」
悠然と笑うノアには、疲労の色が見られない。如何に聖杯の力が強力でも、生来の魔女には届かなかった。
その事実に、ミラルは歯噛みする。
今まで守られてきた分、今度こそチリーを、仲間を守りたかった。ノアを倒して、全てを終わらせて……チリーに未来を手渡したかった。
苦しみ続けて、薄暗い闇の中に心を埋めてきたチリーに、光をあげたかった。
「っ……!」
くじけそうになる心を奮い立たせるため、ミラルは拳を強く握りしめる。
まだ立っていられるなら、終わりじゃない。
「そっちこそもう終わり……? まだ準備運動にもなってないんじゃない……っ?」
無理矢理笑って、ミラルはノアを挑発して見せる。
ミラルに限界が近いのは当然ノアにもバレている。だからこそ、今はあえて笑って見せるのだ。
簡単に、心まで負けてやりたくない。
「……」
そんなミラルを、ノアは退屈そうに眺めていた。
水たまりで藻掻く蟻でも眺めるかのような目線を向けて、ノアは嘆息する。
「あっそ、じゃあ一生準備運動してれば?」
そう呟いて、ノアは自分の親指に爪を立て、軽く引き裂く。ノアは流れ出た真っ赤な血を地面に落としながら、呪文を唱えた。
「血の奴隷(ニグルマグヌ・ユイスベム)」
その瞬間、たった一滴の血の中に込められた魔力が膨大に膨れ上がった。
「――っ!?」
一滴の血がまたたく間に巨大化し、どす黒く染まっていく。そしてそれはみるみる内に三メートル近い体躯の人型へと変化していった。
全身に血管のような筋が浮き出ていたが、のっぺりとした頭部にはなにもついていなかった。
「じゃ、あとお願いね眷属くん。ミラルちゃんが死ぬか動けなくなるまで任せちゃうから」
ノアがそう言うと、赤い怪物――眷属はミラルへ巨大な拳を振り下ろす。
慌てて横っ飛びに回避して、ミラルは転がりながら眷属と距離を取ろうとする。……が、そこではたと気づく。
(ここでこいつを暴れさせたら……城が……!)
城を破壊されれば、チリー達だけじゃなく無関係な人達まで大勢犠牲になってしまう。
それだけは避けたかったが、もうミラルには魔法を使う余力はなかった。
聖杯から溢れていた魔力が、今は枯れているように感じている。
ノアとの魔法の応酬は、それだけミラルの持っていた魔力を消耗してしまったのだ。
再び、眷属の拳が迫る。
ミラルはなんとか魔法を使おうとしたが、消費出来る魔力がなければいくら呪文がわかっても意味がない。
(このままじゃっ……!)
迫りくる拳にミラルが諦めかけた――その時だった。
「!?」
ミラルの前に、小柄な影が立ちふさがる。
そしてその体躯で、眷属の拳を受け止めた。
「あ、あなたは……!」
ミラルを庇ったのは、今まで傍観を選んでいたハズのニシル・デクスターだった。
「あれ、庇うんだ? ちょっと意外かも」
わざとらしく嘲笑するノアを無視して、ニシルは全身全霊の力を込めて眷属の拳を押し返す。
「うおおおおおおおッ!」
拳を押し返された眷属の巨体が僅かによろめいたが、それだけだ。
エリクシアンであるニシルが全力で押し返しても、この眷属の拳は押し返すのが精一杯だった。
「どう? 魔法使えそう?」
「ミラル・ペリドット……今は逃げてくれ! テオスの使徒に、聖杯を奪われるのだけは避けたい!」
「……無視しないでよ。傷つくなぁ」
苛立った様子でノアが呟くと同時に、眷属が再び拳を振り下ろす。
「ニシルッ!」
そこにすぐさまトレイズが駆け寄って、今度はニシルとトレイズの二人で拳を受け止めた。
「はやく逃げろ! 世界を終わらせたいのか!?」
合理的な判断だった。
テオスの使徒であるノアに聖杯を奪われるよりは、ここで逃がしてしまった方がいくらかマシだ。
ニシルとトレイズの目的が打倒テオスの使徒であることを考えれば、今これ以上合理的な判断はない。
それをミラルも理解していたが、何もかもを置き去りにしてここから逃げてしまうのは躊躇われた。
(今は……逃げるしかないの……!?)
スカートの裾を強く握りしめ、ミラルが決断を下そうとした――――その時だった。
「え……?」
城の中から感じた魔力に、ミラルは思わず目を見開く。
「……チリー……?」
静かに躍動し始めた魔力を、ミラルははっきりと感じ取った。