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そうきたか……。
蒼と城井坂家の縁談話を聞いても、私は冷静だった。
政略結婚なんて、時代錯誤も甚だしい。それに、いくら和泉社長が復職するまでとはいえ、蒼がそんな話に乗るとは考えられない。
そして、そんなことはあってはならない。
「川原の居所は?」と私は聞いた。
『手詰まりだ』と侑は答えた。
私は心の中で舌打ちをした。
時間がないのに——。
「侑、川原は私で探すから、蒼のサポートに回って」
『いいのかよ?』
「ええ」と言いながら、私は窓に目を向けた。
東京のど真ん中なのに、目の前に広がるのは慌ただしく人が行き交うビルではなく、青い空。
『……充副社長がいるから?』
そして、窓に背を向けて真剣な表情でパソコンを操作する、充副社長。
「そうね……」
ドアの前から眺める副社長室が、気に入っていた。
『……わかった』
私がスマホを耳から離すと、充副社長が顔を上げた。
第一秘書は今日から有給休暇に入った。
「内藤社長が蒼に接触しました」
「城井坂家との縁談か?」
「ご存知でしたか」
私は副社長のデスクに足を向けた。
「ああ。取締役会の後、俺に打診があった。のらりくらりとかわしていたが、きみが現れてターゲットを蒼に替えたんだろう」
なるほどね……。
「で? 蒼は?」
「さぁ」
「ずいぶん余裕だな」と、副社長が言った。
余裕……。
そんなのあるわけない。
「二十五歳って言ってたかな、相手の女」
「若いですね」
「ああ。しかも才色兼備ってやつらしい」
蒼は、その女性と会うのだろうか……。
「男ってのは単純だし馬鹿なんだよ。ちゃんと言葉や態度で示さなければわからないし、納得しない」
「ご自分の経験からですか?」
「そうだな……」
副社長がとても穏やかに微笑んだ。
彼女のことを考えているのだろうか……。
時々、副社長に蒼を重ねてしまうことがある。年齢はもちろん、輪郭も髪形も違うのに、蒼と見間違えてハッとする。
きっと、声が似ているから……。
あの声で名前を呼んで欲しいと思うのも、 時々、副社長の髪に触れてみたいと思うのも、きっとそのせいだ——。
「副社長、そろそろ会議のお時間です」
私は窓の向こうに目を向けた。
*****
私は焦っていた。
こんなに早く状況が動くとは思っていなかった。
縁談話が持ち上がって二日後。
築島家の三男が城井坂家の一人娘と結婚するという話は、政財界でも噂され始めた。蒼が断れないよう、内藤社長が吹聴したのだろう。
正式契約まであと五日。
蒼にはこの噂を打ち消せない。
「明日、蒼が城井坂のお嬢様と会う」
金曜の午後、充副社長が言った。
「そう……ですか」
取り繕えないほど、私は動揺していた。
蒼が城井坂のお嬢様と会うことがどうと言うのではない。もちろん、多少の嫉妬はあるが、蒼にしてみたら仕事上の交渉相手といったところだろう。
問題は、外堀を埋められることで蒼の逃げ道がなくなることだ。
万が一、和泉社長が金融庁への認可申請までに復職できなければ、蒼はT&Nを守るために人身御供として城井坂のお嬢様と結婚することになる。恐らく、婿養子となって城井坂家を継ぐことになるだろう。
十分だと思っていたリミットが、ほんの数秒後のように思えてきた。
五週間のうちに和泉社長の疑いを晴らし、復職させなければならない。
川原を見つけられないことが、私をさらに焦らせた。
「咲、蒼に会え」
就業時間を終え、副社長室を出ようとした私に、充さんが言った。
「ひどい顔、してるぞ」
私は思わず顔を伏せた。
「会えるわけ……」
「会っても会わなくても後悔するなら、会って後悔しろ」
「…………」
言葉が見つからない。
頭に霧がかかったように、私の思考を鈍らせる。
涙を堪えるので精いっぱいだった。
会いたいに決まってる——。
だけど、会ってしまったら、触れてしまったら、きっと私は何もかも投げ捨ててしまう。
それだけは出来ない。
「昔は素直で可愛げがあったのにな——」
不意に、温かくて力強い腕に抱き締められた。
「みっちゃんのお嫁さんになるって泣いてわめいて、しがみついてすげー可愛かったのに」
「いつの話を……」
蒼に似た声で、蒼とは違う匂い。
「あの時、蒼が妬いてお前を押して転ばせたんだよ。俺は蒼を叱って、こんな風にお前を抱き締めてさ……」
初めて聞いた……。
「お前は覚えていないだろうけど、俺ははっきり覚えているよ。昔から俺たち兄弟が並ぶと、誰でも必ず、まず兄貴を褒めて、次に蒼を可愛がって、最後に俺に愛想笑いするんだよ。俺は兄貴のように愛想を振りまくことも、蒼のように無邪気に笑うことも出来なくて、いつも不機嫌そうで可愛げがないって言われてたからな。だけど、お前は兄貴にも蒼にも目をくれず、俺を好きだと言ってくれた——」
充さん……。
「可笑しいよな……。おむつが外れたばっかのガキに好かれて嬉しかったなんて……」
充さんの髪が、私の首筋をくすぐる。
蒼より硬くて、毛先がちょっと癖っ毛でうねってる。
「でもな、俺にはいい思い出なんだよ。だから、お前には泣きたい時に泣けない、薄っぺらい笑顔を浮かべる女になって欲しくない」
急に、充さんの腕に力がこもり、うなじに熱い息を感じた。
「ちょっ——、充さ——!」
充さんの唇が、私のうなじを撫でる。
彼の腕から逃れようと力を込めても、びくともしなかった。
充さんの唇がゆっくりと私の鎖骨をなぞる。
「や——」
蒼よりも大きい手が、長い指が、優しく私の頬に触れた。
「咲……」
耳元で名前を呼ばれて、私は抗えなくなってしまった。
蒼と同じ声……。
充さんの唇がそっと私の唇に触れ、私は我に返った。
蒼じゃない!
「やだっ——!」
力の限りで充さんを押し退けた。充さんはあっさり私から離れた。
「今度またそんな欲求不満そうな顔してたら、やめてやらねーからな」
「なっ! 失礼な! 欲求不満は充さんでしょう?」
「蒼に似た俺の声に感じてたくせに」
充さんがフンっと笑った。
「ちが——っ」